【自己顕示録】


1997年4月〜8月


08/16

/愛知県東海市富木島町のガスト/

先日、愛知県東海市富木島町のガストに行った。このガストは、ガストの中でも最も料理の不味いガストではないだろうか? (同行人:HDTS、BNKT、T1S1)

この夏のオススメであるらしい、三色カレーを頼んだ。不味い。洒落にならない。それにもかかわらず、宣伝文句は「カレーの神髄」なのだ。

居合わせた先輩が店員に言ってしまった。

「あれを売るってのは犯罪だぜ。子供が食べたら、カレー嫌いになっちゃうよ」

これでも、僕は先輩のことを優しいなとおもった。僕は、仲間がいなかったら暴れたかもしれない。「店員さん、これ食べたことある? 」って気分だったが、先輩の優しさに免じて言わなかった。


08/11

/それってOS? /

先日見たmuleの本に「mule/e-macsは既にOSである、と評する人もいます」と書いてあった。そういえば、以前にも聞いたことがある。でも、shellの間違いでしょう。だって、muleがタスク管理するのか? muleがメモリ保護するのか? 

同じように、「IE4.0のActive Desktopなどによって、windows98のOSがWWWに統合される」という訳のわからない記事が一杯あるけど、やはり変だ。「gui-shellがIEになって、widgetレベルでwebアクセスがサポートされる」であって、OSじゃないよね。何言ってんだか。

「デスクトップがwebになる」ってかいてる馬鹿もいた。マイクロソフトの文章もそうなってるんだろうか。webはwebだい。「デスクトップがwebクライアントになる」ってんならともかく。

MACでも、GUIが使いやすい(僕はそうは思わない)ことをさして「OSが優れている」と評する人が多い。「Mozillaの画像をデスクトップにドラックすると、その画像がファイルになる。なんて優れたOSなんだ!」って。GUIはGUI、OSはOS、shellはshellだよ。全く違うモノじゃん。なんで混同するのかな? 

これを混同するのは、昔のひとがディスプレイやキーボードを指してコンピュータ本体だと思っていたのと同じかな。


/二人のためのラプソディー/

ソフトウェアデザイン(技術評論社)を読む最大の楽しみは、NeXTのゆくえに関する最新記事が読めることだ。ラプソディーのintel版、楽しみだね。

appleは、多分ソフトウェア会社にシフトするんだろう。その第一歩がラプソディーであり、マイクロソフトとの一部業務提携なんだろう。ラプソディーはUNIXカーネルで、その中のイエローボックスはOPENSTEPで、ブルーボックスは旧MAC。でも、中心はイエローボックスだし、僕はMACに興味はない。NeXTが気軽に手に入る世界が来るといいなあ。

問題は値段だね。


08/03

/HNKでみた番組/

昨日(8月2日土曜日)に NHK教育午後9時の「情報と教育」なんてな番組を偶然見ました。 どっかの大学の教員と、大桃なんとかさんがゲスト。

「授業用に、教員が夜などに延々とリソースをさがして、得た情報をリンク集の形でまとめる。生徒は、それを用いて各種情報を得る。」

こんな感じの「インターネットを授業に利用」を紹介していた。
#インターネット、ほーむぺーじはWWWを指す言葉として使われていた。
#もう説明無しで使っていいコトバなんだな^^;

大桃さんは、

「情報を探すのが難しいんですよね。ひとつのリンク集じゃ見つからないことがある。 キーワード検索しても、出てこないことがある。そんなときは、自分の探す態度、発想法を変えなくちゃいけないんだけど、それが難しい。」

いってることはおかしくないんだけど、でも何か変。

「たとえば、ペットボトルに関する情報がないはずがない。だから、見つからなくても一生懸命探す。見つけたときの喜びは大きい。」

ううん、なんか変だよなあ。 なぜWWWで探そうとするの? 

司会「先生、たとえば、 ジャンルによって情報が多かったり少なかったりしますか? 」

先生「数学より理科が多い、ってことはないですが、 具体的なテーマ、たとえば、重力加速度について、 みたいなものだと無い可能性がありますね。 そういうときは、苦労して探します。」

ううん、なんか変だよなあ。

授業用のネタなんて、自分で作りゃあいいじゃん。だいいち、教科書にも書いてあるようなことを、どうしてわざわざWWWで探そうとするんだ? 


WWWを書籍などを駆逐する存在だと考えているんだろうか。僕は、向き不向きがあって、当然共存するものだと考えているんだが…

過去の資産などを、読みやすく手に取り易い形でまとめるならば、書籍の方が適している。すぐ最新情報が変わって、なおかつそれをフォローアップして即座に伝えなければならないようなものは、TVブロードキャストが優れている。でも、TVは受像機のスイッチを切っていれば受けられないし、その間の得られなかった情報は消えてしまう。WWWなら、情報は保存できて、しかも(頑張れば)即時更新もできる。

でも、「今日の晩御飯のレシピ」のために、わざわざWWWで情報を探すだろうか?  「お料理100選」ってな本が一冊あった方がいいだろう。

それぞれのメディアには、それぞれの利点と欠点がある。プロフェッショナルが情報を提供するのならば、メディアは情報内容に合わせて適切に選ばなきゃいかん。(僕みたいは個人は、選択肢がないわけだけど。)


番組の話に戻ろう。大桃のいった次の科白が、番組の“変さ”を徹底的にアピールしている。

「でも、アメリカなんかじゃ、もっとインターネットが進んでいるんですよね」

この科白を受けて番組が展開していったので、多分ディレクターが言わせたものだろう。番組テーマから考えて、「アメリカでは、インターネットを使った教育が、もっと進んでいる」という意味なんだろう。

でも、あまりにも変な発言だよなあ。

インターネットに国境はあるんだろうか? 日本では、アメリカにあるインターネット基盤やインターネットリソースを利用できないんだろうか?  「アメリカでは情報ハイウェイなど通信基盤が整備されているが、日本ではまだです。」ってな意味なら、そのとおりだけどね。

「でも、アメリカなんかじゃ、もっとインターネットが進んでいるんですよね」

どういう意味だったんだろう? 


/Webは発展途上 /

WWW自体がまだ広まって4年くらいしかたっていないってことを、マスメディアの皆さんは覚えているかしら。pushを称して「WWWに新しい仕組みが出てきた」とか書いているけど、実際にはWWWってのは常に新しい技術の実験場だったのだよん。

1992年だっけ、1993年だっけ、WWWからMOSAICまで数ヶ月、MOSAICからNETSCAPEまで1年くらい(記憶が定かではない)1994年終りにNETSCAPEが会社になって、ソフトの名前がNavigatorになって、Mozillaがガンガン流行った。1995年にjavaが出てくきた。このとき、日本語版windows95は産声を上げたばかりよ。Mozilla2.0向けプラグインがガンガンでたのも1995年。1996年に、IEがでて(95年からあったんだっけ? )java1.0がでた。1997年に、java1.1とpushコンテンツがでてきた。

じっさい、あっという間に変わってきたんだから。

まだいかほども経ってないのよ。 (なんだかMozilla中心に書いてしまった。)

だから、新しい技術が出てくるのは珍しいことじゃない。問題は、それが優れた技術かどうか、生き残る技術かどうか。

キャプテンシステムが死んだのは、ユーザが望んで出てきたメディアではなくて、送り手と技術屋が勝手に作ったメディアだったからだ。Internetはユーザ(使う側の技術者とコンピュータユーザ)主導型の発展を遂げてきた。だから生き残った。特にWWWの仕組みは、ユーザのわがままで発展してきたようなものだ。

PUSHコンテンツは送り側のわがままでできたメディアな気がする。

これまでの技術は、一般ユーザ(ただしコンピュータは扱えるひと)が簡単に送り手になれた。しかし、WebTVにせよ、WebNEWSにせよ、その送り手は、マスメディアに匹敵する部門を持つ企業などじゃないとやっていけないだろう。そういう大企業による大企業の宣伝のためのメディアは、Internetでは無視されるような気がする。

僕は、NETCASTERもActive Desktopも死ぬと思う。イントラネット用の技術として生き残る可能性は否定しないけど。


(追記2001年1月4日)

pushは消えた。でも、Web報道は発達した。新聞社がWebにも情報を出すのは当然になったし、Webだけのニュースサイトもある。RealNetwork社の各製品によって動画ストリーミングも現実になった。TVにせよラジオにせよ生放送でTVと同時配信もあるし、Netのみ配信だってある。



06/21

/カリスマ/

書籍「ファインマンさんは超天才」(なんだこの邦題は!no ordinary geniusが原題)を購入。ファインマンさんは僕の三人目のカリスマ(ダリ、プリンスに次ぐ)になりそうだ。やはり一つのことに大変秀でた人は、すべてのことに秀でているものなのかな。

と書いて、気がついた。ケラをカリスマに数えていない。どうなのかな、確かに僕にとってケラは「すべて」と言っていいほどの存在なんだけど、カリスマっていうよりはアイドルかなあ。

どうでもいいか?


04/06

/「マーズ・アタック!」/

ティム・バートンの映画「マーズ・アタック!」を観た。

事前の宣伝や雑誌の紹介を見て、コメディーだと思い込んでいたが、まったくコメディーではなかった。かなり悲惨で壮絶な作品。たしかに、端々にバートン一流のブラックジョークがちりばめてあるが、これで面白おかしく笑う人はいないと思われる。

内容はファーストコンタクトもの。だいたいこんなお話。結末以外は間違ってもコメディーではない。

火星人襲来。迎えるアメリカ政府。翻訳機を介してコンタクトが取られる。「我々は平和の使者だ」盛り上がる皆。拍手と白い鳩を飛ばす。これを見て、火星人は地球人に攻撃を始め、その場にいた人を殲滅させる。

アメリカ大統領の「それは文化の違いによる悲しい行き違いに違いない」という火星人への呼びかけが効いたのか、彼らは「正式に謝罪したい」と伝達してくる。地球人は胸をなで下ろして、彼らの代表を国会に招く。しかし、そこでも大虐殺が…。

結局、彼らは単なるテロ集団であるらしい。戦闘に入るも、科学力の差で、地球人は完全に押されている。

よもや全滅、と思われたとき、偶然に一市民によって「火星人はハワイアン(オールディーズ? )音楽を聴くと頭が破裂してしまう」ことを発見。九死に一生を得た。

壮絶なのは、人が死ぬシーン。とにかく多くの人が死ぬ。積極派も死ぬ。日和見派も死ぬ。戦闘員も死ぬ。学者も死ぬ。一生懸命生きていた一般市民も死ぬ。VIPも死ぬ。真面目な人も死ぬ。不真面目な人も死ぬ。男も、女も、老いも若きも死ぬ。火星人の光線銃に当たると、体が燃え、骨だけ残して消失する。しかも、その描写はマンガチックでは無く、すばらしいCGによるSFXで見事に苦しそうに死ぬ。

同じプロットを使ってコメディを作ることは簡単だろう。でも、バートンは徹底的にコメディを排除する方向に特殊技術を使い、人の死を描写した。これがひとつの狙いであることは確かだろう。

ならばいっそのこと、エンディングは「地球人が助かる」のではなく、全滅してしまってもよかったのではないか。全く救いが無くてもよかったのではないか。そうすると、全滅した後に火星人が何をするのかが、「ただの悲惨な非人道的な映画なのかそうでないのか」の分かれ目になる。少なくとも、火星人用のリゾートが建設される、では視聴者は納得しないだろう。しかし、これだとよっぽどの落ちでないと放映できないような気がする。

というわけで、コメディーだと思い込んでカップルで見に来ていた人たちがかわいそうだった。

/シト新生/

ちなみに、「エヴァンゲリオン劇場版」も観た。つまらなかった。

前評判として、「DEATH」におけるコラージュ性はすばらしい、と聞いていたのだが、そんな事はない。もっと強烈なものを期待していた。ただ、全体として「演奏会の練習」の合間に、あのストーリーがバラバラに挟み込まれている、という構成は買える。

もうひとつ、アスカの精神崩壊描写がよいことを挙げておこう。

しかし、それ以外は見る価値が無い。

「REBIRTH」は、あれだけでは何の意味も無いうえに、大変説明的で嫌だ。復活したアスカの「これがATフィールドの意味なのね。ATフィールドが私を守ってくれるわ。」は、前に思った雑文[父からシンジへ、大人にならなきゃ駄目だ]を補強してくれたカンジだ。しかし、こんな風に明示的に説明してくれなくてもいいような気がする。夏に完全版になったら、考えも変わるのかもしれないが。

最大の問題点は、作り方が劇場映画ではなくTVアニメになっていることだ。映画だから出せる迫力というものがどこにもなかった。残念だ。

TV放送で流れた予告版のコラージュ性、「殺してやる」の怖さ、バッハ風の20人コーラス音楽の怖さ、「これが貴方が望んだ世界そのものなのよ」というキーワード、これらはひとつも映画の中に存在しなかった。なんで? 期待してたのに。






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