【自己顕示録】


1997年12月前半


12/13

/プリントゴッコのCMは何を言いたいのか/

1997年末のプリントゴッコのCMはコンセプトがおかしいと感じてならない。

多少年のいった夫婦と年若の夫婦、その子供で6人以上いてごったにの感じの部屋。彼らは黙々とプリントゴッコをもちいて年賀状を作っているようだ。そこに山田邦子が「帰宅」する。彼女は「あーら、やっぱりプリントゴッコ」と歌う。母親らしき女が出迎え、その荷物を片づけてやる。その後、山田邦子は「ぷり!ぷり!」とさわぐが、誰も相手にしない。邦子は寂しそうにため息を吐いた。そして、さいごにみんなが揃って座る画面に唐突に切り替えわり、「年賀状ならプリントゴッコ」という。以上。

さて、このCMのコンセプトはなんだろう。「プリントゴッコは久々に帰郷した娘を相手にしない家庭を作り出す」だろうか。「プリントゴッコは家庭崩壊の後押しをします」だろうか。だとしたら、いったんでも母親が邦子の荷物を片づけるために腰を上げるのがそぐわない。では、「プリントゴッコは家庭を団結させる」だろうか。だとしたら、どうして家族が邦子を無視するのかわからない。そのような「製品の効果」とは無関係に、久びさに帰ってきた娘を驚かせようと、わざとしばらく無視して見せたお茶目な一家を描いているのだろうか? でも、そうとは思えない。

このCMでは商品の販売促進効果やイメージ上昇効果などは狙えないと思う。行ったいなんのために作ったのだろう? 


/主題歌は主題を歌っていなければならない/

テレビの子供向けアニメ番組、ドラマなどを問わず、大抵は始めand/or終りに主題歌あるいはテーマ音楽が流れる。しかし、本来の意味で「テーマ」を伝達しているものは驚くほど少ない。実際には、単に「始めの歌」「終りの歌」と化しているものが多すぎる。これではいけない。

テーマソングは、その作品の主題を歌っていなければならない。そうじゃなかったら、それはテーマソングではない。必ずしも“歌詞”で伝達する必要はないが、手っ取り早いのは歌詞だろう。著作権の問題があるので“まんま”転記するのは避けるが、たとえば「デビルマンは悪魔であるが、人間のために悪魔族を裏切った逆説的なヒーローである。彼はさまざまな困難に巻き込まれるが、持ち前の技を持って苦悩を乗り越えるのであった。」というのが“デビルマン”のテーマだ。これならば、一発で作品の内容がわかる。また、イメージソングであれば、作品のコンセプトをにおわせるような作りになっていなければならない。「気は優しくて力持ち」といえば“ドカベン”だ。

昔は、少なくとも子供向け番組のテーマソングはまさにテーマソングだった。仮面ライダーやウルトラマンらヒーローの名前を連呼し、その技の切れをたたえ、世界平和を目指すために悪の組織と戦い続けることを願うものであった。キン肉マンだろうとセイントセイヤだろうと、その原則は守られていた。

今は、作品と全く無関係の歌が「始めの歌」「終りの歌」に選ばれることが珍しくはない。その転換を作り出したのは「アイドルの新曲の売り込み手段として主題歌をタイアップされる」では無いかと思われる。具体的には“おにゃんこ倶楽部”(うしろゆびさされ隊)、仕掛人は秋本康。少年ジャンプ系のアニメ「ハイスクール奇面組」の主題歌にたんなるラブソングを採用したのが始まりではなかっただろうか(きちんと調査したわけじゃないんだけど、僕の印象ではそうだったと)。たとえば、“るろうに剣心”の主題歌はJudy&Maryの「そばかす」だが、どうして伝説の人斬りが主人公の作品の主題歌が「そばかす」であってよいのだろう? 

内容と関係無い歌が選ばれると、そのバックのアニメーションにまで無意味な悪影響を及ぼす。歌詞の内容に無理矢理合わせた場面展開が挿入されるのだ。たとえば、新versionの「ちびまる子ちゃん」の二つ目の“始めの歌”であるカヒミ・カリイの「ハミングが聞こえる」(この曲自身は可愛らしい曲だと思う)。

なんたる本末転倒!歌の主題に併せてアニメ作品を変更してしまうとは何事なのだろう!

主題歌は、作品の主題を伝達するためのものでなければならない。単に歌手の新作のプロモーションのために主題歌を決定するべきではない。

別にこれを守らなければ世界が破滅する、という訳ではないが、僕は“原理主義者”の側面を持っているため、こういうことが気になるのであった。


/僕が原理主義者であるとはどういうことか/

僕は明らかに原理主義者です。といっても、イスラム原理主義などの“宗教”をやっている訳ではありません。僕は言葉の意味が崩壊するのが嫌いで、できれば本来の姿を守っていて欲しいと考えているのです。

たとえば、「クリスマスは12月25日であって、12月24日ではない。12月24日を祝うのはやめてくれないかなあ。せめて、“クリスマス・イブ”を祝った後には“クリスマス”も祝ってくれないかなあ」と考えている僕は、やはり原理主義者でしょう。余談ですが、クリスマス当日以外でもクリスマスを祝う(たとえば“クリスマス週間”など)のは悪いと思いません。でも、日本は25日になったらクリスマス週間をやめる。25日まで、ではなくて24日まででクリスマスセールスを終了したりする。そういうのは大嫌い。

さらに言っておけば、クリスマスとは「キリスト・ミサ」であって、キリストが地上に人の子として降臨した日に、彼のことを偲ぶためのミサを行うべき日です。家族で集まって七面鳥を天に捧げる。日本のように恋人どうしがいっしょに過ごす日ではありません。−−こういうことを言い出す僕は、原理主義者。

僕はミュージシャンで、音楽に大変多くのこだわりを持っています。でも、歌詞にはあまりこだわりません。僕は「音程・音量・和音の連続・断続的な変化」を楽しんでおり、その中で言葉は音色以上の意味を持たないからです。歌詞の内容が出鱈目でも、その“音の感触”が適切であったら許します。−−これもひとつの原理主義。

しかし、歌詞だけ取り出して、その歌詞の内容を笑ったりすることはある。たとえば、華原朋美の「love is all music」。歌詞も、始めは「あの人がすごく好きなの」といっているのに中ほどで「昨日は彼の言葉に腹がたっちゃった。そこまでおひとよしじゃ無いわ」といいだし、その直後に「ララララ、守りたい」なんて言われちゃったら、矛盾しまくりで当然笑っちゃうでしょう。でも、それとは無関係に、「love is all music, love is all people.」と歌うことに対して、「英語がむちゃくちゃ」といいだすのは、一種の原理主義かもしれない。

僕は小劇が好きです。劇団健康-ナイロン100℃のように、派手な衣装や舞台装置を用いずに、演技だけで状況説明やキャラクタの立場を説明するのが好きです。そうしていれば、演技だけで場面展開や「ひとり複数役」をこなせるし、それこそが演技だと考えています。「劇団四季や宝塚のように派手な衣装や舞台装置で客の心をひくなんてのは、演劇ではない!」と言い出すのは原理主義。−−もちろん、派手な衣装・派手な舞台装置は、演技とは別におもしろいものだと感じる心はあります。劇団四季や宝塚がつまらないわけでもありません。でも、「演技」に関しては、そういうものを使わないものを見たいわけです。これが僕の原理主義。

僕はやっかいな人間でやんす^^;。


/ついでだから、OS・GUI・SHELLなどの意味の違い/

僕が原理主義であることを記念して、ちょっと用語の整理を行ってみましょう。

OS(のカーネル)
メモリ保護・プロセス管理・ハードウェア抽象化などを行っているもの。
シェル
コマンドの入力などのユーザの操作を受け取るもの。GUIなシェルもコマンドラインなシェルもある。
ウィンドウ・システム
複数の仮想画面を同時に表示することによってインタフェース上でのタスク制御を高度化するもの。したがって、文字ベースのマルチ=ウインドウだって存在する。必ずしもグラフィカルでなくてもよい。
GUI
グラフィカルな操作でユーザが行うべき仕事を誘導するインタフェース。したがって、一画面のGUIやテキストベースのGUIだって存在する。事実として、MS-DOS用のSCANDISKやMSDは優れたGUIを実現しているが、実際にはテキストしか表示していない。
僕個人が考える狭義のGUI

コマンドラインでいうところのパラメタや対象ファイル名の記述順序などの《お約束》を、widget(ボタンやエディットボックスやリストやメニュー)を用いて明示することで「暗記」する必要をなくす、という思想に基づくもの。

widgetの使いかたに関する一般性が確保されていることが望ましく、そのために汎用のToolKitが用意され、「命令の発生=ボタンを押す」といったメタファがあらかじめ定義されている。このメタファを捻じ曲げるような使いかたは望ましくない。たとえば、「エディットボックスに特定のキーワードを入力すると命令が発生する」ような裏技っぽいものは、ゲームならともかくビジネスアプリケーションとしては不必要な機能である。

ちなみに、個人的には、アーケードゲームのストリートファイターIIのようなものはGUIとは言わない。あれのユーザーインターフェースはジョイスティックとボタンがすべて。一方、WinやMacでは、マウスを介して画面上に構築されたボタンなどを操作する。−−という見方。

ウィンドウ・マネージャ
フレーム(ウィンドウ)の位置関係の調整手段の提供(タイトルバーの設置・アイコン化・最大化・隠す、等ですね)、フレームが重ねあったときの処理、などを提供するもの。
それぞれの独立性
特定のOSが特定のGUI(ToolKit)だけを採用する義務も、特定のシェルだけを採用する義理もない。これらは相互に入れ替えが可能であるし、複数を採用して切り替えることも可能。「MacOS」用の「MS-WINDOWS95のウィンドウ・システム」も作成可能だが、著作権やらユーザーの好みの問題で発売されていないというだけのことだ。−−ちなみに、MacOS用・WINDOWS用のX window system(Xサーバ)は発売されている。

以上を元に、原理主義者の僕はこういう反応を示す。

つまり、GUIはOSではないし、シェルはOSではないわけです(MS-DOSコマンドプロンプトはcommand.comというシェルであって、OSではありません)。これらの概念は分離が可能ですし、そもそも混同するほうが難しいと思うのですが、それは僕が原理主義者だからなのかもしれません。


(余談)

ちなみに、WINDOWS95システム及びそのアプリケーションは、ファイルの内容と拡張子の種類の関係を気にしません。結構勘違いされていますが、現実的には拡張子は「単に“シェル”が呼び出すアプリケーションの切り替えに利用されているだけ」でなのです。たとえば、拡張子をjpegからgifに変えたからといってファイル内容が変更されるわけではありません。ms-wordのファイルの拡張子をdocからxyzに変更しても、ms-wordはそのファイルを読み込んで内容を正しく再現することが可能です。極端な話としては、拡張子を付けなくてもOKだったりします。もっとも、一部のソフト(たとえばコンパイラ)は拡張子を気にしますが、これは例外です。

(閑話。でも、拡張子をむちゃくちゃにすると、シェル上でファイル内容を区別する手段が無くなる。WINDOWS95の標準シェルのアイコン表示は拡張子によって振り分けられています。これがMacOSのシェルとの違い。でも、Macシステムはこの機能を実現するためにファイル内容に余分なデータを埋め込むようにしており、そのせいで他のシステムとのデータ互換に問題が出ることがあります。どっちがいいか、といえば、僕は(Internet時代においては)システム間のデータ互換に問題が起きない方が望ましいと思います。)

というわけで、拡張子は単にシェル上の便宜を図るためのものであって、それ以上の意味はありません。



12/10

メモ:12/8の15:30(8670)、12/10の10:30(8730)、19:00(8770)。

/クリスタルドラゴンの新刊発見/

発売日よりも一日はやくグインの外伝12をget。同時に新ゴーマニズム宣言4を購入。

その時本屋でクリスタルドラゴンの15巻を発見。なんと何年ぶりの新刊になるのだろう。僕はそもそも14巻を持っていたのか? 確認して、購入するかどうか決定しよう。

クリスタルドラゴンは、正統派のキリシャ神話系のまっとうなファンタジー系の少女漫画。主人公アリアンロッドは、黒髪のためにエルフのとりかえっ子だと苛められていた。ある日、アリアンロッドは謎の旅人の僧侶に真実の名をもらう。この時から彼女の運命は変った。後に明らかになるように、彼女は竜の杖の継承者であり、本人は自覚していないが多くの運命の流転を人々に運ぶ運命の少女であったのだ。

1〜10巻くらいまでは面白かったんだけど、連載中断したりさまざまな障害がありまして、刊行スピードは落ちるはだんだんと話に勢いが無くなるは、で11巻からは惰性で購入していたと言ってもよい。もう古本屋に売り払おうかと考えていたところだ。でも、やっぱり気になるしなあ。結局アリアンロッドの真の名前はなんなんだろう。ヘンルーダの呪いは解けるのだろうか。邪眼のバラーとアリアンロッドは宿敵でありながら、どうして運命の糸が絡み合っているのだろう。ううん、気にならないといえば嘘になる。


12/08

メモ:11/29の19:00(8240)、12/5の23:00(8550)、12/8の12:00(8650)。

/evangerionのマンガにムーンライダーズを見た/

evangerionのマンガ1〜4を読んだ。噂よりも面白かった。TVシリーズとは別の楽しみかたができるはずだ。

ところで、1巻に「ボクハナク」、2巻に「マニアの受難」というタイトルが使われていた。これはムーンライダーズの「don't trust over 30」にはいっている曲のタイトルだ。他のタイトルも曲名になっているのかな? 


12/09

メモ:12/8の12:00(8650)、12/9の12:00(8658)、15:30(8670)

/another WWW user agentに対する欲求/

最近mozillaが嫌い。どうしてかっていると、「インターネットショートカットのオーナーがオレじゃないんだけど、設定書き換えてもいい? 」などと高飛車なダイアログを出すからだ(win95)。そもそも、HTMLファイルのアイコンやアプリケーション設定も勝手に書き換えるし、かなり横暴だ。いまや、マイクロソフト社よりも横暴かもしれない。重過ぎるし、あまり使いたいとは思わない。

2ヶ月前まではmozilla2.0を延々と使っていた。でも、スタイルシートを試すうち、シート無しの生活は考えられなくなってしまった。だから、mozilla4.0かie4.0を使わなければならない。しかも、けっこうmozilla4.0のGUIを好きなんだな。ちくしょう、俺って馬鹿かなぁ。

マイクロソフトは信頼ならないから、ie4.0は使いたくない。遊びにはよいけど、これをメインマシンに入れておきたくない。そして、僕は一台しかコンピュータを持っていないのだ。

どこでもいいから、CSS1をまともにサポートしていて、javaが埋め込まれていたらJRL(Java Runtime Library)などを呼び出しにいくような仕様のWWWエージェントを作ってくれないかな。圧縮されたインストーラがフロッピー一枚に収まるくらいのスリムさが欲しい。でも、そういう時代じゃないのかな? 


(余談)

2001年1月4日追記。

またOS付属のIEは標準ブラウザの地位を占めた。実際のところ、機能もよいと思う。シロウトさんはブラウザを入れ替える必要を感じなくて、だんだんとMozユーザーは減っていった。

だが、減ったのはMSの戦略だけの問題ではない。Mozの重さや独自性を嫌う人間が、私以外にもある程度いたからだ。

Netscape社はAOLに買収され、Navigatorはほとんどリリースされない。Mozilla自体はオープンソースに移行した。その成果品はwidgetなどを自分自身で描画する(OSのwidgetを使わない)もので、重過ぎるしよく落ちるし、で人気がない。

だがしかし、Netscape社は成功したのだと思う。ベンチャーを立ち上げ、ほんの数人の会社が一時期一斉を風靡し、MSがライバルだと認め、最後には業界の巨人AOLに変われたのだ。ベンチャーとしてこれほどの幸せがあるだろうか。



12/07

/部屋が狭い/

3月からの下宿先を決めに東京に出た。東京圏は、1〜2月に学生や(僕のような)新卒が宿を押さえてしまうので、いくら引越しが3月でも3月に宿探しをしていては住む所が無くなってしまうのだ。そもそも、3月に礼金敷金2・2の物件を泣く泣くgetするのと、12月に礼金なし敷金1の物件をgetするのでは、かかるお金は同じではないか!

会社は地下鉄丸の内線にあるため、できれば丸の内線一本が望ましい。したがって、荻窪〜高円寺のあたりをアタック。

しかし、家賃が高い。月6万だしてもフロなし、トイレ共同なんてところがあるくらいだ。そういう物件は2万円台からあるにはあるが、6万でもあるというのがオドロキだ。−−僕は6畳キッチン別ユニットバス付きエアコンついて6万円台を考えていたのだが、これではお話にならないらしい。7万出せば無いことはないが、7万台はキツイ。

はじめに発見した物件は、新高円寺から南へあるいて20分。6畳+キッチン3畳、ユニットバス・エアコン付きで6万円という望まれた物件だが、いかんせん新高円寺の南へ20分というのは遠い。同じようなところで6畳+キッチン4畳半、バス・トイレ・エアコン付きで5万8千という夢のような物件があったが、これは土方や長距離運送などのトラックが24時間到着・発進する駐車場と隣接(窓を開けると車が停まっている)。これでは夜に眠れないだろうから、パスした。

何が不満なのかといえば、駅から家までの道のりに「何にも無い」ことが不満だ。JR高円寺〜地下鉄新高円寺の間には商店街があるが、新高円寺の南側には何にも無い。そのアパートからは5分歩かないとコンビニが無い。アパートから15分歩かないと街道に出られない。その間は住宅があるだけだ。しかも、街道の基点から地下鉄駅まで5分強かかる。挙げ句に、その間には数えるほどしか店が無い。これはちょっと…

結局、不動産屋のおじさんに紹介してもらった「方南町から歩いて5分、家賃は5万8千円、ユニットバスとエアコン有り」のところを仮押さえにしてもらった。時間と値段はすばらしい。駅の周辺には商店街があるし、ちょっと歩けば喫茶店もファミレスもある。とおりみちにコンビニもコインランドリーもある。街の人々は大変朗らかで安全そう。全く問題はない。あるとしたら、部屋の狭さだ。

ワンルーム6畳強で、そのなかの1畳がキッチン。おそるべく小さいキッチン。30cm四方がコンロ台、30cm四方がシンク(流し台)。まな板を置くスペースすらない。ユニットバスは驚くほど狭い。押し入れは無い。クローゼットは横幅1畳くらいで、奥行きが30cmくらいしかない。これでは何も入れられない。布団をしまうところは無いのだ。

でも、ここでOKを出した。とにかく町の環境がいいし、歩いて5分だし、職場まで電車で20分弱だ(近い!)。

文句をいうより、前向きに考えよう。布団はたたんでクッション代わりにすればいいじゃないか。食卓と小物置と仕事机は一つの机でよいじゃないか。食器はほんの少しあればいいし、調味料は冷蔵庫の上だけでおけるんじゃないかなあ。クローゼットは狭いけど、見限ってスーツ掛けを買えばいいし、後は最低限のサイズのタンスを用意してシャツや下着類を放り込むようにすれば何とかなるだろう。洗濯機はあきらめ、コインランドリー生活でよいじゃないか。TVセットやビデオは無くたっていいじゃないか(ちいさいのを買うかもしれないけど)、CDラジカセは必須だけど。たぶん、ほとんどは仕事場で生活することになるんだから。

本当はイヤなんだ。大き目の本棚を置きたいし、資料を整理できるスペースが欲しい。心の余裕のために、6畳の部屋とは別にまともなキッチンが欲しい。でもなあ、それは給料があがってから実現するしかないだろう。

12月20日に本契約を行う予定。

/JRの英語/

「シルバーシート:お年寄りや体の不自由な人に席をお譲りください。」が「Silver Sheet : Please ゆずる this sheet for eldered or disable persons」だった。「disable person」は「無能人間」ではないだろうか? 「able man」が「有能な人」なのだから。日本語の「体の不自由な人」に相当するのは「handicaped person」だろう。実際、この英語表現は標準的なものだし、日本語表現よりも対象を的確に表わしている。たとえば、思い荷物を持って大変な苦労をしている健勝者も「ハンデを背負っている」のだから、席を譲って上げるべきだと解釈することもできるしね。

もうひとつ。「優先席」を「priority sheet」としていた。しかし、これでは「まずこの席に座ってください!」になるんじゃないかいな。やはり「sheet for handicaped person」だろうなあ。






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