僕の好きなアーティスト(画家)に、ウィリアム=キーファーというロシア人がいる。名古屋市美術館で小展示会をやったときに、その作品に一目ぼれしたのだ。なかでも、「シベリアの女王」という作品はすごかった。(「シベリアの女王」は、名古屋市美術館常設になっている。)
3m*5mほどの大きなキャンバスに、ずいぶん盛りの厚い調子で油絵具が塗りたくってある。書かれているのは、荒涼とした大地を奥へ向かって突き進む鉄道の路線。全体に色がくすんでおり、明るい部分はひとつも無い。大地はまるで焼け野原のよう。
その荒廃したキャンバスの中央から少しはずれた部分に、バレエのトウシューズ(実物)が一組、打ち付けられている。このトウシューズを含んで、ひとつの作品である。
さて、そのウィリアム=キーファーならぬ「アンゼムル=キーファー(ドイツ人)」の展覧会が行われるということを、私は「ぴあ」で発見した。作品は、どうみてもウィリアム=キーファーの作品。でも、ファーストネームも出身国も違う。どういうことだろう、親戚かなにかだろうか。
ともかく、私はその開催美術館である川村美術館(正確には、「川村記念美術館」)に足を運んだ。千葉はJR佐倉駅、そこから送迎バスで20分。
川村美術館は、林の中に配置されている。大きな池(白鳥もいた)、散歩コースなどがセットになっている奇麗な美術館だ。美術館入り口の脇には、フランク=ステラ作の鉄の芸術がそびえていて、やってくる人を驚かしていた。映画「鉄男」ばりのオブジェが、なんと林の中に現れる。ううん、カッコイイ!
展示室は、常設や企画展といった区別はなく、ひとつの展示室しかない。しかし、この常設作品が、またすごい。入るといきなりピカソ、シャガール、ユトリト、モネ、ルノワールである。次の室には、誇らしげにレンブラントが一点だけ飾られた個室である。教科書級の有名作品(よくも悪くも)がボロボロでてくるわけだ。(というか、ここにあるから、教科書用の写真が撮影できたのだろう。)
個人的には、中ほどにあった「橋本関雪」の現代風日本画が気に入った。中でも、ましらの絵は傑作である。水彩で書かれているのだが、体毛のふさふさ感が見事に描かれている。目つきもやさしくて、人間の心を捉えるものがある(本当のましらの目は、こんなに優しくないだろうと思うが)。ちなみに、同じ部屋には尾形光琳と横山大観があった。でも、面白味の無い小作品だった。
あれ、企画展「キーファー」は? と思いながら2回へあがると、フランク=ステラの特集が組まれていた。なぜか名古屋市美術館の常設にあるものの姉妹作品が飾られていた。それはともかく、入り口にあったものと同等の「鉄の作品」のサイバーパンク感がすごい。蜂の巣のような6角形の無限連続をモチーフにしたアルミの板(6角形の穴の奥行きが3cmくらい)を歪めて作ったオブジェがあるのだが、この穴の部分が作り出す映り込みの情景が美しい。見る位置を変えると、また違う情景が現れる。なんとなく、テクノな良さがある。(なお、作品サブタイトルは「白鯨」である。これを遠くから見たら、「自爆」と読めてしまった。)
あれ、キーファーは? と進むと、ようやく最後にキーファー作品が現れた。大きなキャンバス、荒涼としたくらい背景の広野、キャンバスに直接打ち付けられたペンチや藁(わら)など、実にウィリアム=キーファーらしい作品が並べられていた。でも、これを作ったのはアンゼムル=キーファーなんだよなあ。血縁関係は判明しなかったが、同系列の作者であることは間違いない。
というわけで、無秩序ながらレポートはオシマイ。皆様も川村美術館にいってみてください。
メモ:7/19-13:00(3695:4265)、7/20-14:30(3725:4310)、7/21-13:15(3750:4380)、7/22-10:15(3780:4445)。
7月21日、本作りを手伝っていただいたanother HTML-lintのk16さんといっしょに飲んだ。場所は領国の地ビール系のお店「ポパイ」。本の完成祝いである。k16さんはソフトビジョン勤務なので、そのツテで中村正三郎氏にも来ていただいた。
担当編集者の金田氏とあわせて4人で始まったのだが、途中で管理工学(どんな字だっけ…桐とか松のアレね)の武田氏(だっけ…初めての人なので名前がうろ覚えだ。金田氏の飲み仲間である。)が乱入。地ビールの話とワールドカップの話で盛り上がった。ワールドカップ中継を見るために、多くの人が時差ボケになったことが確認できた。
中村氏は7月23日から大学で授業を受け持たなければならないため、21時に離脱。僕はほとんど喋らなかった(喋る隙が無かった)ので、中村氏は僕を覚えていないだろう。なお、k16氏は「ううん、ビールが在れば食事はいらないな」といいならがずいぶん飲んで、帰りの電車で座りながら眠ってしまったらしい。
とりあえず、「この業界は、いずみやで日本酒」が基本らしいので、こんどはそちらに挑戦したい所だ。「上機嫌」というのが美味しいらしい。でも、「いずみや」以外で上機嫌を飲むと、いずみやよりも高くて、いずみやよりも質が低いそうな。ふむふむ、勉強になるなあ。(注: 和泉屋は、飲み屋ではなくて酒屋さん。)
なお、この飲み会で食べたものの中で報告するべきものは、エニューの肉のカルパッチョだ。美味かった。同じくして、こわごわながらエスカルゴも食べた。美味しくもまずくも無かった。あれならアサリの方が美味いかな。
会社の先輩が、「社員名.com」とか「社員名.co.jp」というドメインを探して遊んでいた。それで意外な事実を発見したのだが、ほとんどの人の名前に「.com」や「.co.jp」があるのである。まさに「なんでも在り」状態だ。
sumi.comも存在するが、これはトップページに絵が一つあるだけのモノ。これではつまらない。
それよりも問題はsumi.co.jpで、こともあろうにインチキ宗教系商売である。「Oリングで幸せになろう」と銘打った「野菜が腐っていないか調べる、化粧品が肌に合うか調べる」うんぬんかんぬん実験法とか、「台所で出来る! 5分で出来る錬金術」とか、そういうものが紹介されていた。がーん。
ひょっとしたら、これが角の本質なのかもしれない。がーん。sumi.co.jp。これが本当の「本当の自分探し? 」
(注:詳しくは知らないけど、「本当の自分探し」ってな馬鹿なものが流行っているらしい。「人間関係から切り離された所に、はじめて見える本当の自分がある」なんてセリフで騙されるらしい。このせいで、現実に対処しなくなって、最終的には自己啓発セミナーとかそういうインチキ商売(半宗教)に捕まってしまうらしい。それは深刻でかつ馬鹿げた問題なので、真剣に「馬鹿な言葉に惑わされるな」と主張していかなければならないのだが、ついつい茶化してしまった。)
本日の編集会議にて、ATB編集長が名言を残した。
それは「再就職のためのパソコン再チャレンジ」というネタが提出された時だった。
「ううん、こういう人たちって必死だよな。だから、よいもの書いたら、絶対に食らいついてくると思うんだ。だから、着眼点はよいよ。」
「でも、この本では、一瞬たりとも気を抜いちゃ駄目だよ。相手は初心者かもしれないけど、普通の初心者本じゃダメなわけだよ。そのニーズにぴったり合う教育を打ち出さないといけない。そうしないと、普段の倍以上の苦情が入って来るよ。」
「そうだねえ、世の中には騙していいひとと、騙しちゃいけないひとがいるってところかな。」
一見すると、相手のことをよく考えた、思いやりのある言葉だ。でも、裏返してみると、おお、すると、騙していいひとってのはどんなひと? ^^; これまで出していた本は、どういう姿勢で作られていたの^^; というわけで、「商売」の怖さを垣間見た1瞬であった。
なお、このネタは、結局保留になった。
(以下、1行自主規制でコメントアウト。)
メモ:7/10-12:00(3525:3630)、7/12-9:30(3575:3750)、7/14-13:45(3610:3890)、21:15(3625:3925)、7/15-13:15(3635:3981)、7/16-10:30(3650:4060)、7/17-10:00(3660:4140)、7/18-21:30(3670:4230)
ずいぶん久しぶりの更新。ちょっと気力が足りないのです。あげくに、腰が再び壊れました。立てません。座れません。酷いものです。
講談社新書「日本語誤用慣用小事典」(国広哲弥)を読む。勉強になったし、面白かった。言葉は大切にしないといけないな。
読もうと思って買った本が、溜まっている。「プログラミングの心理学」(ワインバーグ先生)、「エリック・サティ詩集」(藤富保男訳編)、「日本を救おう」(テリー伊藤+野坂昭如)、芸術新潮7月号。−−溜まっているといっても4冊か。
「I think, therefore iMac」という大変センスのよいものである。
これに関して、98/07/15に日経MACがかいた記事が、大変センスが悪い。
(林伸夫)
この言葉、フランスの哲学者・数学者Descartes(デカルト)の言葉「我思うゆえに、我在り(I think, therefore I am.)」をもじったもの。知ってましたか?
ということは、
「我思うゆえに、iMac在り」
すなわち、私たちの知的精神活動を助ける体の一部、ってニュアンスを込めようとしたんですね。
あまりにもセンスがなーい! これじゃAPPLEのセンスがだいなし! ひどーい!
大体さあ、例の言葉って、普通は「我思う。ゆえに、我あり。」
っていうふうに、「我思う」ていっぺん切るモノじゃないか? 言葉のテンポを無視しちゃイカンぜよ。
もし無理に翻訳するなら、こうでしょう。
「我思う。ゆえに、iMAC。」
だって、もとの言葉には「iMAC」のあとに「在り」なんてつかないもんね。こんなの付けられちゃあ、ニュアンスがまったく変わってしまう。あくまでも、「ゆえに、iMAC」。
だいたいさあ、「私たちの知的精神活動を助ける体の一部」
ってなムチャクチャな思い込みって酷いよね。そもそも、もとの広告は、iMACが「I think, therefore iMac」
って言ってるんだよ。「私が、iMAC」といっているわけで、「私は、貴方の一部」だなんて言っていない。iMACは自己を主張しているんであって、iMACは誰かに媚びたりしていない。
ああ、日経MAC、センス悪いぜ!
ところで、APPLEの発表によれば、今後数モデルのiMACが発表されるんだそうな。あげくに、iMACはブランド名であって、パフォーマなんてのと同じようにシリーズとして長らく新型がでるんだそうな。それ、センスわるいよなあ。僕は、iMACは「アレ」であって、あれ以外であっては欲しくないと思っている。iMACシリーズなんて許せない。だって、iMACシリーズなんていったら、iMACのインパクトがだいなしではないか。ああ、APPLE、商業センスわるいぜ。
(そう思ってるのは僕だけだったりして。)
先日、新書のコーナーで本を漁りまくって、ちょっと感動した。あそこには、各種の知恵が安い値段で提供されている。岩波新書にせよ講談社新書にせよ、他の各社の新書もそうだ。
講談社の新書は、次のようなポリシーで発刊されている。
「教養は万人のためのものであって、一部の人のためのものではない。日本の教育は、ともすれば狭い分野に陥りがちで、あげくに定型的である。大学にいけるほど裕福でない人は、教養のなんたるかをほとんど知らないまま過ごしている。我々は、教養を得たいと思う誰もが教養を得られるように、新書シリーズを発刊する。」
また、先日、英語教育の名著「英語は楽しい」(作者、出版社失念)を発見。戦後初期にかかれた本で、その前書きを見ると、次のようなことがかかれている。
「中学や高校に行けなかった諸君も、かならず英語を習うべきである。今後生活を続けるに当たって、英語は君たちの資産になる。可能ならば、夜間中学や夜間高校にいき、君たちの望みを成就させるよう頑張って欲しい。本書は、君たちの教育を受けたいという意欲に答えるために出版されている。」
(この本には、大学の教科書になってもよいほどしっかりした内容が、誠実にわかりやすくならべてある。まさに名著だ。くだらない受験参考書の英語の本で勉強してしまったひとは英語を嫌いになったかもしれないが、この本に出会っていれば、きっと英語(というか語学)を好きになれたであろう。)
かつては、教育は高価なもので、教育を受けられない人が沢山いて、みな教育を受けたがっていた。教育を受けられた人は、その幸運をを十分に生かすために、責任を取って社会指導者になった。
今、誰もが教育を受けるのが当たり前になり、あまつさえ大学にいくのが当たり前になった。その結果、みなが教育を喜んでいるかといえば、そうではない。また、大学生の教養レベル(というか人間のレベル)も下がる一方である。悲しい。
勉強をしよう。教養を付けよう。本を読もう。自分を磨こう。心を豊かにしよう。他人をいたわろう。社会を支えよう。
以下、90行ほど自主規制でコメントアウト。
メモ:6/29-20:30(3115:2790)、6/30-21:00(3185:2895)、7/2-19:45(3244:3070)、7/3-22:30(3260:3150)。
スーパー「サミット」においてあったビラに、「土用のうなぎ、うなぎの旬は7月〜8月です。」とあった。そんな馬鹿な、この時期のうなぎは最悪だぞ。うなぎの旬って、11月〜1月でしょ? ちがったっけ。
なお、ご存知のとおり、土用のうなぎってのは、平賀源内(だとおもう)がうなぎ屋に頼まれて作った宣伝コピーに過ぎない。「くそ暑い夏を、うなぎのパワーで乗り越えようぜ」であって、「うなぎの旬」とは無関係。
パソコン本を読むみなさんへ。
コンピュータ関連の出版社といえども、出版社が売っているのは書籍です。書籍で紹介しているソフトではありません。ソフトそのものに関する質問は、ソフトメーカーに出してください。
また、「お試し版」は、通常はサポート対象外です。本についているCD-ROMに入っている体験版ソフトであっても、出版社もソフトメーカーもサポートしません。そもそも、お試し版をインストールしようとした時に出てくる契約文書に、その旨が書かれています。あの画面で「OK」を選んだ人は、文句をいう権利が無いのです。ちゃんと読んでます?
そもそも、ソフトの動作保証は、「典型的なWindows95マシン」などで行う程度のことしかできません。同じWindows95であっても、コンピュータシステムが異なれば、状況が異なるのです。それは仕方ないことであって、無理を言わないでください。
…そうか、これだ。いまどきのシロウトさんは、「コンピュータはどれでも同じように動く」と思い込んでいるんだ。
昔は、というか、AT互換機とMS-DOSが市場を制する前は、コンピュータシステムってのは、メーカおよび機種によってバラバラだった。NECにPC-6001、PC-80001、PC-8801、PC-9801があって、富士通にFM-7、FM-77、FM-NEW7とFM-8があって、シャープにMZ-800、MZ-1500、MZ-2500、X1、X68000があって、あげくに全部のマシンでOSが特殊組み込みで、システム間にソフトの共通性が無くて…という世界だった。もっといえば、PC8801シリーズでも、9801、mkII、SR、とかなんとか馬鹿みたいに細かいリビジョンがあって、不完全上位互換しか保証されていなくて、最新機種を買うとノーマル8801用のソフトが動かない、なんて世界だったわけだ(それでも、NECは互換性を比較的大事にしていたメーカーのはずだ)。
最近のコンピュータしろうとは、この状況を知らないんだ。どのメーカのコンピュータシステムでも、同じだと思っているんだ。Windows95のリビジョンがちがっても、アドオンソフトが違っても、サービスパックの当て方が違っても、当然のようにソフトは同様に動くものだと信じているんだ。
それはマズイと思うぜ。この世界はそんなふうに出来ていないんだよ。ちがって当たり前なんだ。ハードメーカーが「誰でも同じように扱えます」って宣伝文句で売っていても、それは宣伝文句であって現実じゃないんだから、騙されてはいけない。
そういう商売のしわ寄せが、コンピュータ出版社へのワガママな質問という形でやってくる。くぅう(ToT)
コンピュータって難しいなあ。
そうなんだ、コンピュータシロウトがまず始めに習うべきは、コンピュータ発達過程なんだ。
たとえば、初期のコンピュータ(メインフレーム(大型電算機)をイメージ)は、OS(オペレーティングシステム)というものが存在しなかった。そのかわりに、オペレータの技師(というか、おねえちゃん)がいたわけだ。
ユーザはプログラム(計算式)をオペレータに渡し、オペレータはそれをむき出しのコンピュータ中核に打ち込み、処理させたわけだよ。コンピュータにはキーボードもモニタも存在しない。あるのはカードリーダとテーププリンタだけ。例のSFっぽい穴あきカードをパチンパチンと穴開けて作成したわけだよ。カタカタと音を鳴らしながらでてくる怪しい出力テープを受け取ったわけだよ。冗談じゃなくて、本当なんだぜ。
(ユーザは、オペレータにプログラム(計算式)を渡してから結果を受け取るまでに数日待ったわけだ。)
昔は、コンピュータはコンピュータルームにあるのが当たり前だった。コンピュータはみんなの共有物であり、みんながコンピュータに仕事をしてもらいたがった。オペレータのおねえちゃんは、オペレータ部の部長と相談しながら、「この教授のプログラムを優先させよう」とか「この計算が会社にとって重要だから、先にやろう」なんて感じでタスク管理していたわけだ。
ユーザは、かならずしもコンピュータの専門家ではない。だから、「ちょっと、これをプリンタで印刷してよ」てな感じの抽象的な指示しか出せない。なぜこの指示が抽象的かといえば、具体的なプリンタの種類がことなれば、必要な操作は異なるからだ。でも、オペレータのおねえちゃんはそういう質問を裁くのが仕事だから、「なによアンタ、もっとまともに指示してよ」と思いながら、機械の実状にあわせて上手いことやっていたわけだ。
当然、ハードウェアのメンテナンスや故障管理も、オペレータのお姉ちゃんやシステム管理者がやっていたわけだ(実際に修理するのは、ハードメーカだとしても)。
(このような事実、実感は出来なくても想像は出来るよね。)
その後、技術が進化して、コンピュータが小型化して、コンピュータはみんなの部屋にあるようになった。そのとき、そのコンピュータひとつひとつにオペレータのおねえちゃんが必要だ、といわれた日にゃあ人件費かかって仕方ない。だから、オペレートを機械のソフトウェアとして実現させることが必要になった。それが、オペレーティングシステムだ。
つまり、OSとは、オペレータがやっていた仕事を代替するソフトウェアです。コンピュータ資源の管理、タスク管理、ユーザからのプログラム実行指示の受付、ユーザの無知を吸収してなんとか実行する機能を有するわけです。
注。
厳密には、ここではOSをカーネルとシェルに分解して考えるべきです。カーネルは、タスク管理やメモリ管理などをしています。シェルは、コマンドを受け付けます。抽象化はカーネルの仕事だけど、カーネルだけで完結しているわけではありません。たとえば、プリンタなどの抽象化はプリンタドライバとの連携によって実現されています。ドライバをOSの一部と考えるかどうかは謎です。
どうすか、この説明? OSが何のために存在するのか、よーくわかることないですか?
そうなんだ、シロウトが最初に学ぶべきことは、技術的な背景ではなくて、発達過程なんだ。いきなり今のコンピュータだけを覚えようとするから、現状が見えないんだよ。そうだ、そうだ。
これ、おもしろい発想だとおもわない?
きたがわ翔の作品、ヤングジャンプ連載かな?
主人公エンゾ(まんまジャン・レノ)は、絵に描いたかのような多人数家族(5人? +1)の長男で、美術教師にしてヘルシー研究家。彼は、娘「七海」のアトピーを直したいがために、食生活からなにから、すべてを変えた。自分の若いころの不健康な食事(人工着色剤とか、ジャンクとか)のせいで娘がアトピーになったことにショックを受け、このようになった。彼は毎朝6時と毎晩7時に家族が集まって食事を採ることを、家族の義務としている。家族が幸せになれるように…
このマンガは、彼および彼の家族を中心に、本当のやさしさとか本当の強さを考えていくマンガである。けっこう泣ける。
(補足2001年1月6日)よかったのは5巻くらいまで…
週間少年チャンピオン連載の「学校怪談」高橋葉介がおもしろい。夢幻紳士で有名な高橋さんだが、このハナシもだいたいそういうようなハナシ。オカルトが題材だが、ハナシの目的は人を恐がらせることにはない。きちんとしたテーマを持って、お化け話に含まれる教訓や人間模様を書く漫画である。というか、もっと単純に楽しめるハナシだ。なお、映画になった「学校の怪談」とは無関係。秋田書店。
話は、霊能力を持つ九段九鬼子先生と、霊媒体質を持ってしまった少年ヤマギシを中心に進む。といっても、単行本を追ってみた所、この体制になったのは6巻からの模様。それ以前は、もうすこしホラーに重きをおいた話だった。というわけで、オススメなのは6巻以降ね。
作者名、忘れた。週間少年チャンピオン連載中。
コミックス6巻くらいから、実におもしろい。それ以前はちょっとナンだが、とにかくそれ以降はおもしろい。
一応、主人公は祥というおんなのこ。レディースチーム「夜桜」の特攻隊長をやっている14歳、という設定だが、この話は、暴走族ものでも暴力ものでも、どちらでもない。このマンガは、人間関係と優しさと犠牲心の屈折したドラマである。
祥は、たぐいまれなる純粋さと優しさを兼ね備えたおんなのこ。夜桜のリーダーである天野瑞希は、祥に対してだけ、心の安らぎを見出せる。
また、鬼面党(^^;)のリーダー高村は、祥に惚れるも振られつづけている。高村は、類まれなるカリスマで、一声で200人もの兵隊を集められるステータスをもつ男だが、それでも祥を心から手に入れたいと思っている。
実は、高村が祥に惚れたのには訳がある。5年ほど前、彼は今よりも精神的に荒れていた。愛や優しさの存在を信じられなかった。彼はバイクで走行中に犬を跳ねてしまったときに、その瀕死の犬を蹴飛ばすような人間だった。そのとき、まさにそのとき、その瀕死の犬をかばおうとした少女がいた。彼にはこの少女が理解できなかった。高村が与える暴力から犬を守ろうと、自分を犠牲にしてでも犬を守ろうとするのだ。
高村といっしょにいた伊沢は、「おまえはこのこには勝てない。100万人の中にひとりしかいないような心の持ち主が現れたのだ」と称した。高村は逃げるようにその場を去った。その5年後、祥と再開し、今のようなベタ惚れ状態になった。
祥は、この事件のことは覚えているが、相手が高村であることは覚えていない。高村は、その昔の自分を知られたくないと思いながら、今を生きている。
祥のいるチーム夜桜のリーダーである天野瑞希も、またそのような過去をもった人間だ。実は、天野瑞希と高村、そしてもうひとり遊佐は、その例の5年前に3人でチームを作っており、残虐の限りを尽くしていた。天野瑞希は自分の恋人(医師)が自分をおいて戦場に他人を助けに行ってしまったことを、あるいは恋人が自分を連れていってくれなかったことを怨んでいた。そのため、自分も戦場の中に生きたいと望み、高村らと非道の限りを尽くすようになっていた。天野は危険を求めて、高村は愛や優しさの存在を信じられずに、惨殺の世界に身を委ねていた。
ある事件をきっかけに、彼らはチームを解散した。
高村の「本当の愛ってヤツが観てみたいね」という一言で、彼らはあるカップルを襲った。女性の方を犯しながら、男性にこういったのだ。「本当の愛ってヤツを見せてくれよ。あんたは彼女のために死ねるのかい? あんたが自殺できれば、彼女を助けるって約束するよ」…もちろん、これで男が自害するわけはないと思っていた。高村は、うわべだけの愛が剥ぎ取られていくさまを見たかったのだ。しかし、この男は見事に自害してみせた。高村のアイデンティティを揺さぶる事件であった。高村は、これを期にチームを解散させた。
さて、話のうえでの現在に、祥は偶然死にたがりのおんなのこを助けた。なぜ自殺したがるのかと問い詰めると、昔に彼女はその恋人を悲惨な事件で失ったという。端的にいえば、先の「天野らがおいつめて殺してしまった男性」のカップルが、このおんなのこだ。祥はなんとかして彼女を助けようと苦心し、いままでの所は成功している。
祥は、このおんなのこの自殺の原因を作ったのが天野瑞希や高村だとは知らない。また、例の犬を殺そうとしたのが高村だとは知らない。天野や高村は、今の幸せ(=祥)をなくしたくないがゆえに、過去に脅えながらも新たに罪を重ねて生きている。
この他にも、前述の伊沢や遊佐、高村の親衛隊長であるアキラらにも、やるせない現在の思いと、知られたくない過去がある。ひとつひとつの話は「おいおい、そんなことあるかいな」というトンデモさだが、まあマンガだからOKだ。
今の連載段階では、そのような材料をこしらえまくり、絡ませ、いつ破滅してもよいようにトリガー(祥の前に、くだんのおんなのこが現れる、など)を配置したところだ。このテンションは、読み手に「はやく先を!」という気分をもたらしてくれる。
つまり、このマンガは「登場人物達は気づけないテンションの盛り上がり(神の視点? )」を読者に提供しつづけている。この意味で、僕は今このマンガが好きだ。
作者名わすれた。週間少年チャンピオン連載。
主人公けんちゃんは、中学生天才発明家。というか、ピース家一家は電気屋でありながら、みな天才発明家なのだ。その発明がもたらすトンデモな事件をほのぼのと描く漫画。いってみれば、アラレちゃん系ほのぼのマンガである。毎回1話完結で、気分よくすんなり読める。
安心してオススメ。
メモ:6/22-9:30(2740:2175)、6/23-11:30(2805:2265)、6/24-18:30(2855:2380)。
いかんせん、僕はエセ知識人です。中学生くらいからそうだったんだけど、ホンモノになってしまうのが恐いらしい。実際には、なにかひとつを選んで、いいわけできない立場になるのが恐いんだ。こんなんじゃだめだ。ホンモノになろう。何かになろう。逃げちゃ駄目だ。
書籍「佐藤雅彦全仕事」を購入したので、報告します。
佐藤雅彦さんは、CMプランナーです。すごいひとです。代表的な仕事を挙げてみましょう。
極め付けが、「独立後の最初の仕事は、ゲーム“IQ”だった」ということです。あのハイセンスなゲームIQは、この男の仕事です。この事実を知った時、ショックのあまり凍りつきました。
僕はこの本を読んで、その発想法に感動し、また作品に感動しました。
トップルの宣伝を覚えているでしょうか。
絵の王様があらわれ、震えながら懇願します。
「おねがいじゃおねがいじゃ、わしの一生のお願いじゃ。トップル買って、トップル買って、コイケヤトップル、サクサクじゃ。」
ピー! CMはひかえめに。
すると、画面が小さくなって、王様も小さくなって、小さな声で繰り返すのです。
「おねがいじゃおねがいじゃ、わしの一生のお願いじゃ。トップル買って、トップル買って、コイケヤトップル、サクサクじゃ。」
僕は、この本でこの宣伝を見つけた時、感動して涙を流しました。なんで泣いたのか説明するのは難しいですが、とにかく感動したのです。
また、古いNEC98の宣伝(バザールでござーるよりも前)の作品で、アヒルが4匹、98を買いに電気屋さんにいくものがあります。
「98買いに行こう、98買いに行こう、98買いに行こう、98買いに行こう。」
「これください、これください、これください、これください。」
写真がないと伝わらないとは思いますが、僕はこのアヒルたちがお店で「これちょうだい」といっている写真を見て、再び感涙しました。
欲しいんです。アヒルはNEC98が欲しいんです。こんなにすばらしい宣伝を作れる人が他にいるでしょうか。
他にも、彼が手がけた版の「小学一年生」にも感動しました。あまりに名作であるため、CMであることを疑うほどです。こればっかりはテンポが大事なるので文章にできませんが、この本を買って文字と写真をみれば、その映像は心によみがえるはずです。
オススメです。
fjでよく見かける「暴れんぼう」は、決してfjだけの名物ではない。
オジサン〜オジイサンな感じの人から。
「あんたら、サギみたいな本出してるね。え? パソコン用語辞典のことだよ。これ、読んでもちいともわからんじゃないか。読めば読むほど、訳が分からん。いまね、社会的に、コンピュータわからんと生きていけれんようになっとるわけだよ。それで、僕ら困って、こういう本に頼ろうとするわけじゃない? そんで、読んでみて、まるでわからん。これは詐欺だよ。普通の新聞読んでる人にわかるように書けよ。あるいは、帯に“専門家向け”と書いておけよ。かなり多くの人が、この本のことを憎んでいると思うよ。」
時後考察。
たとえば、「現代Jazz作曲用語事典」を、Jazzを聞いたことの無い人が理解で入るだろうか。たぶん、無理だ。それは出版社の罪なのか?
このひとは、(英和辞典みたいな)コンピュータ用語-日常語対応表を求めているのだろうか。この本は、辞書じゃなくて事典なんだが…
しかし、ただ単に自分が理解できなかっただけなのに、「サイレント・マジョリティ」までもちだして出版社に文句をいうのは何故だろう?
会社員、態度が偉そう、頭が堅そうなひと。
「このEXCELの本、フロッピーディスク(以降、FD)へのデータのしまいかたが書かれていないじゃないか。」
WindowsでFDにデータをしまうための、ごく普通の作業をしてください。それはWindowsそのもののハナシであって、EXCELのハナシではありません。当社にも、よいWindowsの入門書がありますよ。
「この本、入門書だろう? 俺は、入門書ってのはパソコンそのものが初めての人向けの本だと思うね。そうだろ? とにかく、そのFDへのデータのしまい方があいてある本のその部分、FAXで送ってくれよ。一冊1400円も取ってるんだから、それくらいしてくれよ。」
時後考察。
「はじめてのJazz」ってCDを購入して、収録曲が気に入らなかったとする。このとき、レコード会社に「別の曲をいれたテープを送ってくれ」と怒鳴り込んだりするだろうか? 論外だ。
なお、コンピュータ入門書で1400円ってのは安い方だぞ。
1「この本をかって、対応ハードウェアリストを見てみたら、俺のパソコンが載っていない。知っていたら、本を買わなかった。本の代金、全額返せ。」
2「俺はFAT32でフォーマットしているんだが、fipsでパーテーションを分割できない。どうしてくれるんだ。」
時後考察。
出版社はLinuxをリリースしているわけではない。Linuxの本を出しているだけだ。Linuxに関する情報を販売しているのであって、Linuxを売っているのではない。その本によって「自分のハードウェアは対応していない」という貴重な情報を入手した人が、出版社に「金返せ」というのは論外である。
また、LinuxがFee-Freeなのは、「無保証」だからだ。無料なかわりに、at own riskで行わないといけないのだ。2年ほど前なら、それは常識だった。なんでこんなふうになったんだろう。
ちなみに、商用のPC-UNIXだってたくさん存在する。SUNのソラリスしかり、SCOのUNIXWAREしかり、だ。メーカー名を忘れたが、digital-UNIXとかBSD/OS(注:FreeBSDではない)とかも存在する。商用UNIXなら、Ms-Windowsなみの楽々インストールである場合が多い。しかも、GUIによるシステム設定ソフトなどが標準でついてくるはずだ。あげくに、会社がメンテナンスや初頭教育を請け負ってくれるだろう。これが、有料ってことだ。(なお、Linuxベースの有料商用セットも存在する。日本で有名なのは、Turbo-Linux(パシフィック・ハイテック社)だ。)(そう、Ms-Windowsが楽々なのは、「UNIXよりも初心者向けだから」ではない。たんに商用だからだ。)
自分が楽したいのなら、誰かに金を払えばいい。お金が足りないなら、無料OSと自分の苦労によってシステムを構築できる。なんて恵まれた世界なんだろう。なんでそのことに文句をいうんだろう?
(たぶん、商用UNIXがあることを知らないのだ。意外かもしれないが、きっとそうだ。)
(会社の同僚曰く、「実は、Windows95が有料だってことすら知らないんだろう」とのこと。これは事実かもしれない。)
(ちなみに、先日、IBMのwin98への以降に関するFAQを読んだら、「どこでwin98を入手すればいいのですか」なんて質問があった。win98がコンピュータショップで売られる商品であることを知らないらしい。そう、OSはコンピュータを買うと無料でついてくるもので、それ以外の何者でもないと思っているのだ! あったまわるーい!)
メモ:6/17-12:30(2580:1895)、6/18-9:00(2615:1960)、16:00(2640:1990)。
4月のはじめの【自己顕示録】で、私は「IBMとMSが共同開発していたOSが途中で分離して、一方がOS/2に、もう一方がNTになった」と書きました。この内容に誤解がありました。OS/2自体はそれ以前からあって、その32bitバージョンを作る時にMSと協力したが、決裂して、OS/2とNTに別れた、というのが正しいようです。ごめんなさい。
ムーンライダーズの「don't trust over 30」から「九月の海はクラゲの海」を久々に聞いた。ううん、傑作。ポップでありながら、ここまで破壊的な歌詞と実験的な音の楽曲は、他をさがしても見つからないだろう。
作詞はあのサエキけんぞうなのだが、さらっと流して聞くと「片思いラブソング」なのに、よく聞くと勘違い思い込みストーク的犯罪的恋慕の話になっている。「勘違いで自己陶酔する人々」を見事に模倣しているのだ。
「君のこといつも見つめてて、君のこと何も見ていない」
「僕のこと何も話さずに、僕のこと全部伝えたい」
この恐ろしいまでの身勝手さ! しかし、それを「恋のもどかしさ」だと勘違いしている人は多いのではないか?
実は、高校1年生までの私は、そういう勘違い野郎だった。あの時は、相手にむちゃくちゃ迷惑をかけたと思う。反省したところで、もう罪は消えない。
東京都庭園美術館、「イタリアのガラス1930-1970」に行ってまいりました。美しゅうございますね、ガラス。なかにはどきつい不透明な彩色が施されたものもありましたが、滑らかな流線および透明色の映り込みを活かした作品の方が好ましく感じました。
「二枚貝」(大小2セットのものと、中1品の2パターンがございました)には特に感銘を受けました。これは偏平で細長い変形楕円の立体の花器で、上端に貝の口をあしらった穴がございます。その流線形の織り成す不思議な輝きは、しばし時間を忘れるほどのものでした。(実際、わたしは10分ほど眺めた挙げ句、途中で戻ってきてまた5分ほど眺めておりました。たぶん、監視員のかたは、かなり不審に思ったことでしょう。申し訳のしようもございません。)
一方、「恒星」と名づけられた2つのガラスの固まりのオブジェにも痛く感動しました。こちらは、2色のガラスの円形オブジェを同人円として交互に重ねあわせたもので、光と影による不思議な投影模様を生み出します。角度によって表情を変えるその模様は一見の価値があると思います。
また、この庭園美術館自体がアール・デコ期の美術品です。もとは朝香宮邸として建てられたそうですが、その大理石の切り込みの美しさ、所々に当てられた鉄製紋様の美しさは本物です。個人的には、階段が大変に美しいと感じました。
ただ、細部に注意が払われているにもかかわらず、総合的なバランスには問題があるように思われます。いくつかの装飾は、あきらかに現在の鑑賞に堪えうる産物ではなく、ただの流行に過ぎないものでした。もっとも、歴史を留めるという意味を考えれば、まさか改築するわけにもいかないのですから、致し方ないところでしょう。
美術館の料金で、庭園も鑑賞できます。日本的な庭園と西洋装飾が混在する庭園で、いいともわるいとも言い難い、そのようなものでした。ただ、本来は公開のために整えられたわけではないので、庭園すべてを回ろうと思っても、効率のよいルートなどは存在しません。私などは、庭園内で迷ってしまいました。まあ、それも楽しみのひとつと捉えればよいのでしょう。
美術館所在地は、JR山の手線目黒駅徒歩5〜10分です。目黒という町そのものもよいところですね。
メモ:5/29-9:30(1985:660)、5/30-14:30(2020:750)、6/1-21:30(2075:860)、6/2-12:00(2085:900)。
「HTML概説」のスタイルシートにザッパ用のを流用したら、moz4.0は本文途中で「前景色」を標準に戻してしまう。ザッパのアルバム紹介ではそんな事態には陥らないのに、なぜ? やっぱ、Mozillaの品質って最低だな。みなさん、Mozillaを捨てるか、version2.0まで戻しましょうね。
中村正三郎氏のWWWで知ったのだが、アメリカのネットワークコンサルタントの人が「(サーバとしての)NT vs UNIX」という論文風の記事をWWWに公開している。しかも、実名で。その和訳が公開されたので、紹介することにした。
その中から、思わず目を疑った事実を転載しておこう。
「NTサーバには、ユーザ個人に対するディスク使用量の制限が設けられない。ということは、あるユーザが無節操にファイルを作りまくってディスクの空き容量を食いつぶしてしまったら、そのディスクは役に立たなくなる、ということだ。もし、同じディスクスライスにシステムが入っているなら、これだけでシステムをクラッシュさせられる(テンポラリファイルも仮想メモリも使えなくなるわけだから)。」
ちなみに、「しかも、サーバ管理者はこのような事態を発見したところで、そのユーザを止める手だてはない」
とくる。ガーン! そのOS、役に立たないのでは? ひとり分のパスワードが流出しただけで、クラックする必要も無く、サーバをダウンさせられるんだもの。
(注:UNIXは、管理者の権限で、ひとりひとりのユーザごとにディスク使用上限を決定できます。)
ところで、UNIX的には、ユーザファイルのディスクスライスとシステム(ルート)スライスは別にするのが常識。つまり、もし「ユーザごとの上限」を設定していなくても、ユーザがファイルを保存するディスクとは別のところにシステムがはいっているから、先のような問題は発生しない。NTでもこんな風にディスク系を構築していれば大丈夫だと思うのだが、NTのひとはそういう常識を守っているだろうか…
MSは、NTでUNIXに歯向かおうとしてるけど、「片腹痛い」じゃすまないね。正直に、こんなふうに言わなきゃ。
「インターネット時代のクライアントマシンのOSには、Windows95では不十分です。クライアントにはNTを!」
サーバにはUNIXやPlan9を。基幹システムにはメインフレームを。信頼と安定が大切ですよ。
(追記2001年1月6日:いまでも、最強のデスクトップ環境はWin2000Proだと思う。落ちないし、ソフトも揃っている。)