8/22-20:00(4540:6645)、8/24-21:30(4615:6790)、8/28-21:00(4685:7105)、8/29-15:30(4695:7155)。
ワインバーグのthe psychology of computer programmingの翻訳本(プログラミングの心理学、木村泉監訳、1994年、pp368、技術評論社、東京都)を読み始めた。これがすんごくおもしろい。プログラミングの人間の行動として分析し、プログラミングにおける人間行動の分析、チーム活動における社会行動としてのプログラミングなどを語る。
ビジネスマンの心を理解するために、数冊のビジネス書を購入。そのなかでは、東澤文二(1996)【図解】仕事のカイゼン(pp176、日本実業出版社、東京都)がおもしろい。自分の仕事でもカイゼン指向を生かさなきゃ。
8/17-22:30(4365:6280)、8/18-13:45:(4410:6345)、20:30(4430:6375)。
先日の「はじめての靖国神社」のとき、総武線普通に乗った。このとき、おもわず「き・い・ろ・い・電車で、週に一度の上京、行くぜ!」
と歌ってしまった。
「千鳥が淵、月の水面、振り向けば、屋根の上に、光るたまねぎ」と歌ってしまった。本当に武道館が見えた時、僕は意味も無く涙ぐんでしまった。
中学生の頃の記憶がよみがえり、僕の心を締め付ける。三つ子の魂、百まで。僕は、爆風スランプの1stと2ndの内容を忘れることはないのだろう。
この時期の連載マンガとしては、週間少年ジャンプの「ワンピース」が抜群。「ゾロが鷹の目の男に挑戦し、敗れる」のシーンの「男気」がカッコよい。また、それを受け止める「鷹の目の男」の「男気」もスゴイ。少年マンガには、ああいう「でっかい目標、男として尊敬できる目標」が必要だ。うんうん。
あと、週間少年チャンピオンの「特攻天女」もかなりキている。ついに、祥に高村らの過去がばれる。しかし、それは偶然の産物ではなく、しくまれた「復讐」の一環だった。はたして、その復讐を企むものの正体とは?
復讐を正面から受け入れることに決めた高村が、天野に「じゃあ、はずしてくるよ、俺の最後のストッパー。」と言い放ち、親友伊沢に別れを告げに行くシーンがカッコイイ。この作者は「雰囲気」を描写するのが本当に上手になった。ゾクゾクするほどのテンションだ。
ついに、1997年12月頃でたらしいクリスタルドラゴンの15巻を読んでしまった(atマンガ喫茶)。半年経っているのに、まだ最新刊だった^^;
内容だけども、しっかりしてる。この作者、作品を書くペースはすんごく遅い(ギャップが大きい)けど、内容を見失ったりはしていない。不思議だ。
無事ソリルらはヘンルーダを取り戻す。ただし、まだ体内にはセクァヌの霊が残っているらしい。今はサークレットで抑えているが、これもアリアンロッドの活躍が足りなければ「封印の力」が切れてしまいそう。
そのアリアンだが、なんとその名の象徴である「銀の滑車(アリアンロッド)」を手に入れる。これが竜の杖の3つめのパーツであるらしい。といっても、今アリアンの力はドワーフによる黄水晶の封印で抑えられているため、コントロールが効かない。
そのアリアンの前に、双面神ヤヌス(石像)が現れた。ヤヌスは昨今のローマの災害をすべてアリアンのせいだと考えている(事実、そうなのだ)。ヤヌスはアリアンをローマから追放しようと、アリアンの精神基盤の崩壊を狙った攻撃を仕掛けてきた。その一環として、ヤヌスはなんと運命の人邪眼のバラーを時空転移させてしまう。荒ぶる神であるバラーは、ヤヌスの石像をやすやすと破壊し、ローマに新たな混乱を運び入れてしまう。
思いのほかしっかりした展開。これでは、また先を読みたくなってしまうではないか。しかし、今のペースでは、また2年も3年も待たないと新刊は出ない。困った。あしべゆうほ様、お願いだから(普通のマンガの単行本なんだから)1年に1冊以上だしてくださいね。
なお、ミ=アーハもウーナも生きていて、どうも子供が産まれたらしい。子供といえば、バラーの洞窟では、姉の魔術のもと、バラーと異形の妖身の子供が複数生み出されている。
8月17日、はじめて靖国神社に行った。ゴーマニズム宣言の戦争論を読んで、「一度くらいは実物を見ておかねば」と思ったからだ。良くも悪くも、まずは自分で見物しないと。
JR市ヶ谷から歩いて10分くらいかな、靖国神社はそこにあった。でっかい鳥居、でっかい菊の御紋、いやあ、全体にでっかいね。普通に簡易お清め(みずで洗うのね)して、簡単に参拝してきた。ここまでは普通の神社である。
ふと境内の奥を覗くと、そこでは巫女が踊りを奉納しており、また神主らしきが貢ぎ物を厳かに捧げているのが見える。こういう《小祭り》が毎日行われておるらしい。ふと回りを見ると、境内には生け花が数点展示されていた。これも奉納品であるらしい。このへんが「靖国」か?
はじめて知ったのだが、靖国神社には遊就館という記念展示館がある。大人300円。江戸末期からの日本の歴史にまつわるさまざまなものが納められているらしい。
と、その建物の回りに行ってみると、なんと「大砲」「戦車の砲台」「電車」などの各種の機械が展示してある。迷彩塗装がカッコイイので、要チェック。
展示内容は変更されるのかもしれないので注意。僕が行った時は「幕末の英霊」と「婦女子英霊」の特集であった。
ここではじめて知ったのだが、靖国神社は、大東亜戦争の英霊を祭るためのところではなくて、幕末からの「日本再生」の犠牲になった人を祭るところとなっている。というわけで、(本人の望みとは無関係に)吉田松陰先生や高杉晋作、坂本竜馬が命(みこと)となって祭られている。彼らの肖像画が飾ってあったが、かっこよかったなあ。(なお、小山ゆうのマンガ「おーい、竜馬」は大傑作だ。読むべし。原作が「武田鉄也」だが、馬鹿にしてはいけない。)
展示品は、歴史を学ぶための資料と解説がメインだ。必ずしも年代別に並んでいるわけではないが、確かに《幕末から現代まで》の歴史の流れは見聞できた。ただし、英霊の個人的な所持品などが展示されていて、趣旨がわからなくなることもある。なかには[遠山の金さん所持の鎧]などもあって、なんだこりゃ状態だった。
個人的には、奉納品の記念絵画が奇麗で嬉しかった。明治天皇や昭和天皇が靖国神社に参拝した様子なんかの絵なんだが、さすがに《あらひとがみ》(当時)を描いているだけあって、画家に気合いが入っている。
そんなかんじで、前半の《幕末の英霊》に始まる流れは楽しめた。
でも、後半の《婦女子英霊》からは、ちょっとダメだったね。単に「こんなかわいそうな個人がいました」的な解説文になっちゃって、ダメ。くだらん。
それら企画展示を越えると、「兜、刀、鎧」や「戦闘機(ホンモノも模型もあり)」などの展示になる。こちらは(知識が足りないため)ふーん、と見ただけ。
オーラスは、また個人紹介モードであった。でも、こちらには「遺族が英霊のために奉納したもの」などが紹介されていて、泣ける感じの演出。23歳で嫁を取らぬまま死んだ息子のために、母親は「花嫁人形」を靖国神社に奉納したんだそうな。「みたまえ、この三国一の美人の花嫁を!」
ってな感じのお手紙付きだった。−−家族愛は私のツボだなあ… くだらんと思いつつ、どうしても騙されてしまう。
遊就館の所蔵品を含め、全体に美術品的な価値がある。建物の作りなども立派だ。僕は寺社仏閣全般を(美術品として)好きなので、それだけでも存在意義を認めてしまう。−−ただ、お涙頂戴的演出は止めて欲しい。
8月16日、はじめて浅草寺に行った。雷門から仲店どおりをブラブラし、本堂に行き、まわりをぶらついて帰ってきた。
当然かもしれないが、人間の中の3割くらいが外人さん。フランキーな黒人さんが、人力車に乗っけてもらって喜んでいた。ちなみに、韓国か中国かはわからないが、日本人と同じ顔をして日本語以外の言語を喋っている人が沢山いた。ツアーで来ているらしい。
どうでもよいが、ねえちゃんがたは浅草でもキャミソールでエロ商売人みたいなのであった。浅草に来る時くらいは、浅草らしい格好をしていればよいのに。
浅草といえば、「雷門」の大ちょうちん。あの前では、お約束のように多くの人が写真を撮っていた。その大ちょうちん以外にもたくさんのちょうちんが飾られていたが、日本人的にはなんとなくよい気分だった。
その大きな雷門ちょうちんの左右にいた「あ像」と「う像」だが、ここのはずいぶんまるっこくて「かわいい」。一方、奈良にあるやつはもっと「力強い」という記憶がある。愛知県の「しゅうらくえん」の大仏さんの近くにある金剛力士像もカッコ良かったはずだ。すると、大仏がいるかいないかが問題なのか? しかし、浅草寺にだって何らかの仏さんはいるよなあ…
雷門からしばらくは仲店どおり。それを抜けると本堂。その本堂に入る門には、何故かでっかいわらじが飾られていた。この由来について昔TVで見たような気がするのだが、思い出せなかった。残念。
皆がやっていたので、「百円でお線香を買い、塔(とは言わないかも)に刺して、その煙を体に焚き付ける」という儀式に参加してきた。病気がある人は、その部分に煙を当てると治るらしい(思わず腰に煙を当ててしまった)。こういうのはTVでしか見たことが無かったので、よい経験になった。
(このような「神話」を「ばかばかしい」と片づけてしまう人は不幸だ。社会生活は、神話とともにある。浅草のあの場所であの光景が見られなくなったら、日本の終わりが来たと思ってよいかもしれない。)
本堂からちょいと左にずれると、そこには「花やしき」遊園地が。ずいぶん唐突な所にあるなあ。遊覧機が隣の建物にぶち当たりそうで恐かった。
さらに進むと、そこにはWINSが…人間の顔ぶれが急におっさんばかりに。青空飲み屋がたくさんあって、おっさんがおだをあげていた。外人がここに迷い込んだら、驚くだろうなあ。
(花やしきに行く途中、左堂に入るための道の前あたりで、不思議な彫刻を発見。4人が苦しみながら手を差し出している像で、下半身が融合しているのだ。たいへん「奇々怪々」で恐い。このまわりは出店も出てにぎわっているのに、どうしてこれひとつだけ「奇々怪々」なのだろう。)
先輩に「亀十の薄焼きかりんとう」を薦められていたのだが、ばら売りはしてなくて、一袋600円もしたので購入しなかった。そのかわり、境内近くで「あげまんじゅう-抹茶いり」を1つ150円で食べた。あげた油が甘く、また抹茶も甘い。でも、決してしつこくはない。うまかった。(でも、味はお店によりけりだろうなあ。)
ちょいと疲れたので、茶店でも入ろうと探し始めるが、抹茶や白玉の味わえそうなお店はちいとも見当たらない。天ぷら屋とうなぎ屋が多い…けど、必ずしもうまそうでは無い。苦労して探した「自家培煎のロワイヤルコーヒーをどうぞ、500円」のお店に入ったが、ちいとも美味しくなかった。残念。
なお、TVで見たことのある「ヤツメウナギ」のお店を発見したが、食事時間からずれていたので賞味しなかった。はたしてヤツメウナギは美味いのか? 謎は深まるばかりだ。
(全然関係ないけど、浅草駅で「TV, or not TV.」という宣伝コピーを見つけた。もちろんハムレットの「To be, or not to be.」のもじりなのだが、日本人である僕は「テレビ、or not テレビ」と読んでしまって、しばらく理解できなかった。[ティーヴィー]と発音しなければならない。)
以上、雑多だが、1st impressionである。
ZdNETのoffice2000のfirst lookを読んで、ユーザーインタフェースの大幅変更にショックを受けた。ひとことでいえば、「outlookのインタフェースに統一」なのだ。openダイアログボックスさえもが変更されている。
ユーザーは、普通はユーザーインタフェースに対して親しみを覚える。それを大幅変更すれば、古いユーザーは嫌がる。僕なんか、ボタンが「四角い枠のあるボタン」から最近の標準である「マウスポインタをかざすと浮かび上がるボタン」に変わっただけで、嫌気が差すほどだ。したがって、ユーザーインタフェースの変更は、よほどのことが無いと断行できないものだ。
にもかかわらず、今度の変更は、そういうレベルを遥かに超えた次元に到達しようとしている。あげくに、利点のある変更だとは思えばい。
MSは何を考えているんだ?
8/10-22:00(4210:5875)、8/11-21:45(4240:5935)、8/12-21:15(4265:6005)。
新宿の東急ハンズでアランジアロンゾの灰皿を買いました。(煙草も吸わないのに^^;)
アランジアロンゾとは、「たまごクラブひよこクラブ」の絵を描いている人です。たまひよだけでなく、カッパくんとかパンダくんとか、いろいろいるのです。
今回は、人にプレゼントするために「しろうさぎとくろくま」を購入。かわいい。
あと、自分のために「わるもの」を購入。「わるもの」の灰皿の絵は、黒マスクのにやついた悪者がタバコの投げ捨てをやっている絵です。でも、しょせんは灰皿の中。ひねくれていてかわいい。
ハンズ各店舗にて探してみてください。
1年前の4月に広島市立美術館と九州の美術館に行った時の感想のテキストを探したら、どこにも残っていなかった。佐伯祐三、黒田清輝、青木繁、岸田劉生、ダリのホンモノを見て感動したはずなのだが、細かいことが思い出せない。やはり、どこかにいったら感想を残さねばならぬな。残念。
というわけで、芸術新潮1998-6「河鍋暁斎」の感想をば。河鍋暁斎は狩野派ではあるのだが、幅広いジャンルの日本画を残した。この芸術新潮の表紙の「ねこまた」は傑作だ。基本的に、ぼくは彼の獣画が好き。p70の「鶏の正面図」は驚嘆に値する。
正面図といえばフナの正面図などもあるのだが、これら動物の正面図は普通は書けないものだ。だって、動物はポーズとって止まってくれたりはしないもんね。彼には動的な対象の把握を頭の中で(別の動体側面に)再構成できる能力があったらしい。天才ってそういうものか。すごいなあ。また、解体新書を読み漁って解剖学の知識も仕入れたらしく、骸骨お化けの異様なまでのリアルさにはびっくり。これが書ければ、どんなポーズの人間だって正しく書けるだろう。
もうひとつ、芸術新潮1998-7「ケルト特集」。4月の上野美術館でのケルト展を期に、アイルランドに取材班が飛んだらしい。ぼくはこのケルト展に行って感動したが、さすがにパンフレットなどは買わなかったため、この芸術新潮を(奇麗な写真が載っているという理由で)購入した。
ケルトといえば「絡み合い紋様」である。ぼくはこれがいたく気に入った。丸善で「ケルトアート」系の版権フリー紋様集を購入し、拙書のフォームに使ってくれるように指示したくらいだ(拙作本を買って確認してください^^;)。ただ、平面の紋様と立体の紋様では基本的なフォームが異なっているため、この紋様集では展示会で見た「水差し」などの紋様を彷彿とさせるモノはない。それが残念だ。
ところが、件の芸術新潮p74には、その水差しの写真が載っているではないか。感動。球面の上で絡み合う紋様だが、その接続部分には目をかたどった不思議な記号が刻まれている。奇麗。このページだけでも、芸術新潮1998-7は「買い」だ。check it out!
もうひとつ、ケルトといえば「あやしい動物紋様」だ。フラミンゴの首が異様に長くて、その首が別のフラミンゴの首と絡み合って“ケルト紋様”を構築していたりする。意味も無く絡み合うそのドウブツ達が、おまぬけでかわいい。これは多くの「ケルト紋様集」に入っていると思うので、ぜひチェックしてみて欲しい。dig it, and tell your friends!
7/28-22:30(3925:4910)、7/29-19:30(3990:4990)、7/30-21:15(4025:5100)、7/31-9:00(4035:5135)、8/1-14:15(4055:5230)、8/2-9:00(4065:5270)、8/3-21:15(4085:5365)、8/5-23:15(4110:5530)、8/6-22:00(4120:5595)、8/8-10:30(4135:5710)。
最近、萩尾望都(少女漫画の大家)を借りて読んでいる。[ポーの一族]は前から好きだったが、このたび[トーマの心臓][訪問者]などを読んで、認識を新たにした。なるほど、「手塚治虫と並ぶ」と称されるだけの実力を十分に持っている。
さて、その中でも小学館petit comicsの萩尾望都作品集(9)の[半神]はすごかった。表題作は、アシモフの「停滞空間(世界で一番見にくい子供)」と同じくらいの衝撃を受けた。ここにあらすじを書きとめておく。
スーシーとスージーは、シャムの双子。二人の体は、腰の部分でつながっている。お姉さんのスーシーは、栄養不足で痩せこけ皮膚などがカサカサだが、大変に知恵の発達度が高い。妹のスージーは、栄養満点で美しいが、知恵は全く発達していない。考えることも喋ることも出来ない。
彼女たちは、既に10歳ほどになった。親戚などは、つねに妹を「かわいそうな、無垢の天使」とほめたたえ、お姉さんには見向きもしない。しかし、妹は自分ではまともに歩くことも出来ない体であり、つねにお姉さんが支えてあげなければお風呂にも入れない。お姉さんが世話してあげなければ食事も取れない。そもそも、妹はかけられた言葉の意味を理解できないし、それに反応も出来ないし、そもそも喋れない。お姉さんは「妹は訳も無く誉められるが、自分は蔑まれている」ことを理解する知恵を持っているのに、だれもそのことには見向きもしない。お姉さんが発言をしても、みなが気持ちわるがるだけ。
ある時、医者に「切り離し手術をしなければ、スーシーもスージーも死ぬ」といわれた。妹はそもそも自家栄養を生成できず、お姉さんから吸い取っている「寄生体」として生き延びているようだ。だからこそ、お姉さんはあのようにカサカサになってしまっているのだ。「切り離せば確実に妹は死ぬが、お姉さんはまっとうな一固体として生き延びるようになるだろう」とのこと。ただし、手術はかならずしも成功するとは限らないようだ。
お姉さんは、手術を受けることを決意し、親を説得した。お姉さんは、もう妹の世話をしたくはなかった。そのような不合理な理由で、自分の栄養を取られたくはなかった。自分が醜いままでいるのをよしとはしなかった。
結果的に、手術は成功した。
手術後1週間程度で、お姉さんは立ち上がれる程度にまで回復した。ある日、妹の死に際に面会を許された。そこには、つい先日まで自分とつながっていた自分の半身がいた。自分で栄養を作れない妹は、当然ながら栄養不足で干からびてカサカサになっている。髪の毛は抜けおち、肌はくすみ、驚くほど痩せている。つまり、「自分と同じように醜くなった妹」がそこにいたのだ。
妹は、このまま死ぬらしい。でも、あそこにいるのは本当に妹だろうか? あれは自分ではないのか?
時が経ち、お姉さんは普通の少女として回復し、成長した。年頃になり、奇麗になり、恋をするようになった。しかし、鏡を見るたびに、そこに見出すのはかつての美しかった妹の成長した姿だ。はたして、自分はスーシーなのだろうか、スージーなのだろうか。私が憎んでいたあの半身はどこに行ったのだろう。私は自分の半神をなくしてしまったのだろうか。
おお、こうやって書き留めるとホラーっぽい。でも、実際には大変繊細で美しい物語だ。
なお、これは32ページ程度の短編マンガだ。この長さにこれだけの話を詰め込む能力(これだけのお話自体をきちんとかける能力)は、まさに手塚治虫クラスの実力だといって過言ではないだろう。すごい人がいたものだ。
余談だが、萩尾モトの「子供はみな飛べるのに」という初期の短編が個人的には大好き。私は《空を飛べる》という話に弱い。「飛べるはずなのに飛べなくなってしまった大人」を思って悲しくなって泣いてしまう。
映画[スノーマン]でも、少年がスノーマンに手をひかれて空を飛ぶシーン(BGMは[we're walking in the air])で泣いたし、ラストの「朝おきてみたら、雪だるまは融けて、いなくなっていた」でも泣いた。
どうして、僕たちは空を飛べるままでいられないのだろう。−−子供のままでいたいとは思わない(ピーターパン、死んじゃえ!)。しかし、空を飛べる大人でいたいと思う。