はじめて読んだ神林作品。短篇集。カバーイラストは、アイマクス付きのフェイスヘルメットを付けられた少女。写実系。なんとなくオウムっぽくて、恐い。
語り口のテンポがよく、冒頭からのめり込んでしまった。いきなり舞台は火星で、主人公は描けなくなった画家。心理治療士の勧めで、スフィンクス=マシンに会いにゆく。
電子キャンバスやスフィンクス=マシンなどの魅惑的な単語が登場するが、これらはまったく説明されない。しかし、主人公を取り巻く環境や感情については、淡々と冷静に描画される。−−ことさらに電子キャンバスなどが説明されないのは、かの世界では当然だからだろう。そう理解させるイキオイがある。また、「どんな世界になろとも、人間を苦しめるのは人間関係だ」という主張とも感じる。
話が中盤になると、ようやくスフィンクス=マシンの生態が描かれる。彼らの論理の組み立てかたや、それが発見されてからの人間との関わり合いが面白い。
(余談:神林作品全般の特徴だが、この仮想生物の生態などが、一定の科学的法則にきっちり従うものとして、その科学側面がきっちり説明される。感情表現の言葉ではなくて、物理や科学理論の言葉で法則が説明される。この感触をして私はSFを感じる。)
この物語では、スフィンクス=マシンが組み立てる「筋の通った、しかし間違った理解」が面白い。
「地球にはまず最初に、人間がいたんだ。人間からありとあらゆるものが生まれたのさ。蝿も木も草も鳥も猫も魚も、人間から分離したものなんだ。きみらの言う進化論なんか錯覚さ。なんでそんなものを信じているのかぼくには理解できないね。」
それを受けて主人公の精神が壊れて幻想を見出すのだが、小説描画としてはあくまでも現実として描かれるのも面白い。蝿の幻想記述は恐かった。
狂気具合は筒井なみ。これに科学を足すと、神林になる。−−カバー折り返しにある著者近影を見ると、大学にいたころの自分の同類だという共感を禁じ得ない。
語り口も心地よいが、SF的プロットそのものに感じ入る。−−女性は、男と女と、そして愛娘を産むことができる。
ラストの「娘を侮辱するなんて許せん」/いけない。どうも悪酔いしてしまったようだ。
という言葉にも痛く感心。−−アシモフはSFを大事にするあまりコトバにはこだわらなかったが、神林は同時に言葉使い師としての意識が強い。
(余談)
ぜんぜんどうでもよいことだが、このストーリーには「ビーム構造体」という単語が出てくる。知らない人が読んだら「光ビームによる構造体」を想像するかもしれないが、「ビーム」とは梁のこと。
私は大学で林学を学んだが、そのなかには橋やダムの設計基礎も含まれており、ビーム構造についても学んだ。
てな感じで雑学を自慢してみた。
オチがとても恐い。が、ラストの「脛かじりめ」
によって、見事にオチている。
ストーリーそのものは革新的ではないが、やはり文体が面白い。叔母に薦められて見合いに望む恭子のシーンの本文での「本音かもしれない。」をテンでつなぐところなど、感心するばかりだ。
初めて会ったとき、あ、と思った。叔母はわたしのことをよく知っている。子供のころから叔母に似ているとよく言われたものだけど。わたしがもっと若かったらねえ、という叔母の言葉は本音かもしれない、でもだめよ叔母さん、このひとはわたしのもの。
奇麗な物語だ。終末後もの。特にどこが−−とは言えないが、読後感が爽やか。
中学生のとき、エンデの終わらない物語(never ending story)を読んだ。
主人公は、学校をサボって、1冊の本を読む。彼が読む本のタイトルは、「終わらない物語」。実読者は、<自分が読んでいる本の主人公>が読んでいる別の本の内容を読んでいく。途中に「世界を救うために、お姫様の名前を呼ばなければいけないシーン」がある。それまでのストーリーではお姫様の名前は明らかにされないので、とうぜん<物語の主人公>は知らない。ここで、いままで三人称で描画されていたにもかかわらず、急に語り口調が変わる。
「きみは、ありったけの大声で、姫の名を叫んだ。」
この瞬間から主人公は、<本の中の本に出てきた少年>から、<本を読んでいた少年>に変身する。実際に読んでみれば、まさに自分が本の中に出てきたのを感じて、目眩を起こすだろう。−−私はこれを読んで、「小説には、物語を書くだけじゃなくて、様々な効果を起こせるのだな」と感じ入った。
神林の表題作「言葉使い師」も、言葉によって人を操作する物語だ。一貫して物語は「きみは〜〜〜する」
と描かれている。といっても、登場する言葉使い師が操るのは、「きみ」ではなく、世界そのもの。この世界は「言語を禁止し、テレパシーのみでコミュニケートする」
と定義されているが、その中で言葉使い師だけが言語を操る。彼が語る言葉で世界が変容する。−−オーラスの1行は真に感動的だが、ネタバレすぎてしまうので引用しない。
プロットも面白いが、その言葉使い師の口を借りて語られる「神林版小説論」も一読の価値あり。
内容も文章も、本書の中で一番好き。
文章としては、前半の小学生としての自我を描く文体が醸し出す「甘い日々の追憶」に心を動かされる。この主人公は母を好きになり、大人になれない自分を悔やむ。しかし、自分自身はそのことを理解しておらず、どうして変な感じがするのか思い悩む。−−このモチーフを、神林は一人称で奇麗に書ききった。
通常であれば、「大人になれない自分」は、幼少の焦りにすぎない。しかしこのお話では、ここをSFにした。−−彼(を含む全員)は、実際に年を取っていない。この都市は不老処理に守られている。この住民は、一年おきに記憶を抜き、新しい「役」としての別の人生を演じ続ける。これに反発し、年を取るために自らを酸化させる一派がいる。−−これが内容としての面白さだ。
機械(戦車)の思考過程の描画がスゴい。また、「視覚が自分の感覚を空間に投影するように、感覚を時間軸に投影したものが感情だ
」という仮定のもとに描かれる世界観や哲学そのものも面白い。そういうSFな面だけでなく、ところどころにある言葉そのものの美しさにも引かれる。−−まさに言葉使い師だ。
(補足:言葉使い師=氏の代表作の表題。)
冒頭は、主人公「ヒロミ」がガラスを割るシーン。読むだけで窒息感を覚える。無感情性という設定と、それをこのような形でしか見守れない父親の描画に胸が詰まる。母親は狂うし。−−かなり辛い小説だと感じた。
(注:字は「宥現」だが、めんどくさいのでヒロミとする。)
だが、その想いは、戦車が動き出した時点で変わった。この戦車は、無数のセンサーと無数の道具によって、状況を感知し、判断し、行動する。これを擬人的な表現ではなく技術的な表現で書くところに、感動を覚えた。
−−センサーからの入力で物体の接近を感知し、それを分析して危険と判断し、それを避けるために駆動モードを低速から高速に切り替える。地面グリップの情報から3つに分かれたクローラの回転差を調整し、移動する。外部に飛翔センサーを打ち上げ、そのセンサーからの情報で目標物体を観察し、時系列情報と積分演算装置から移動方向を予測し、その先に砲撃をする。視覚のみでなく、温度センサーや振動センサーを駆使して状態情報を収集する。その情報をもとに行動し、その結果の変動をまた収集し、計算し…
この戦車は機械的なものだが、十分複雑な入力と判断機能と道具を持つ機械だ。神林の技術知識と想像力と分泌力によって、この機械は生命体に近しい複雑性を身につけている。−−生命は、原始的なものでも十分複雑だが、それでも十分機械的なものだ。機械と生命を明確に線引きできるわけではない。
この戦車は、攻撃されたら報復するようにプログラムされている。この攻撃描画の非情さというか、「人間的な感情を備えていない機械」としての行動展開過程に、恐怖するとともに感動した。−−こういうものを書いてしまう神林をスゴイと思う。
そのあとで、まずその機械の判断過程を ひととおり書いた後に、ヒロミから見た状況が描画される。小説として、この対比が面白い。とくに、「p56で戦車が発動させた極低周波振動による攻撃が、p59でヒロミの視覚として再描画される」に感じ入った。−−p56では振動によって人間を内部から破壊したことが分かるだけだが、p59では戦車を中心とした同心円状に砂塵が上がることが分かる。この両方の情報を読んだときに、私は「ブオン」という音と風を感じた(私は音楽人間なので)。
この第1セクションのラストでは、ヒロミがマキの死に際して、「きみのために泣く」
として、目薬を用いて泣き続ける。−−愛する人を失って、理性は悲しみや苦しみを感じるのに、感情は感じない。表現する術もない。この矛盾に苦悩するべきだと理解しても、感情は苦悩を感じない。−−この悲惨な状況に、思わず感情移入した。
舞台は一変し、別世界へ。死んだヒロミが、エリクサーによって蘇る。ヒロイック=ファンタジー系の設定に飛びつつ、物語のテーマが時間であることを表明する。
ヒロミが「死んでいるのに生きている」という状態に疑念を持ち、多くのことを試す姿が面白い。「エリクサーが切れて灰に戻るのと、肉体を撃たれて墓に入るのは違う」「罪の行為と罪そのものが分離している」などの設定も面白い。エリクサーというモノ自体が、多分に「物語としての魅力」を孕んでいるのだと思う。
未来に死んだ女が、エリクサーによって現代に蘇る。その女が子供を宿し、生まれた子供がマキになる。そして、過去から来た戦車が現在を壊す。−−なんと面白いギミックだろう。
全体の中で、このセクションが一番好きだ。
(余談)
このセクションの冒頭を読んで、自分がその内容を知っていることに驚いた。単行本「言葉使い師」の あとがき で引用されているのかなーと思って読み返すが、書かれていない。翌日ようやく判明した。表題作「言葉使い師」の中で、言葉使い師が「いま書きかけの話」として紹介したのが、この「墓から墓へ」だ。
実はこのセクションだけは気に入らない。ヒロミが時間と感情の関係について考察するシーンは面白いが、その後の「見つめることによって生命をキープする」世界には魅惑を感じない。
冒頭にて、ふたたび戦車が中心になる。ここでの機械駆動の模様と、機械の判断過程に魅せられる。
その後の「未来人、境界人」といった設定や「未来が過去を侵食する」という説明には、多少物足りなさを感じる。しかし、このへんで締めてもらわないと困るのも事実。お話としては十分に面白い。
ラストでヒロミは、今度こそ本当にマキを失い、それとともに感情を得る。初期のストーリーを伏線とした感情発露に、感じ入らないわけにはいかない。
よくできたSF小説だと思う。
【岡本太郎の絵本 あいしてる】(文・構成 舟崎克彦、1999、小学館)を、amazon.co.jpより購入。彼の絵画を、別のヒトが再構築して文章を足したもの。想像よりもダメな絵本だった。
左側のページには、太郎の絵から部品を切り離してレイアウトしたものに、手書きの線で書かれた細い文字が添えられている。右には、その元の絵画がある。文章の内容は、といえば…
すがた かたちは ちがうけど すきなものは すき! なかを さかれても へっちゃらさ。
この文字が絵画の鑑賞をジャマしている(私にとっては)。−−相田みつを大嫌いな私が、こんなものを買ってしまうとは… 不幸だ。
amazonで見つけたときは、本人が作成した絵本だと思い込んで、イキオイで発注してしまった。反省。−−書名に「岡本太郎の」とあるのは卑怯だと思う。
Piro氏のWeb(http://www.cc-net.or.jp/~piro/entrance/entrance.html)を見て、かなり驚いた。
(余談:topじゃなくてエントランスでごめんなさい。こっちのほうが、スクリプトの効果がよく分かると思って。)
このサイトは、HTML(XHTML)とJavaScriptとCSSで作られている。見てくれの担当はCSS2だ。CSS2って、ここまで綺麗なサイトを作れるものだったんだ!
単一のデザインを考えただけでも凄いのに、このサイトは複数のデザインを用意している。配置を含めて表現構造が根本的に変わる。その複数のデザインが、それぞれに美しい。もうthemeとかskinと称してもよいと思う。
そして、驚いたことに、同じ文書にすべてのデザインを適用できている。−−表現構造が違っても、文書構造は1つだ!
適用するシートを(スクリプトによって)動的に変更できるようになっているので、即座に試せる。ちなみに、スタイルシートをoffにもできる。試してみて欲しい。なんとsimpleなHTMLであることか!
(余談:この「シートの切り替え機能」は、W3Cの希望ではCSS対応を謳うブラウザならば、標準で実装して欲しい機能
となっている。)
(余談:この切り替えの実装のため、TokiMeki Networkよりも1歩進んで感動した。)
使いこなしたPiro氏は凄い。それだけの能力があるCSS2も凄い。−−一方で、そのCSS2自体の潜在能力を見抜けないまま本を出した自分に反省。
Piro氏はまだ高校生のようだ(日記に、センター試験の模様が書かれている)。後生おそるべし。
ずっとHTMLを書いているひとは経験的に知っていると思うが、HTML文書の見てくれを支配するのは、レイアウトではなくて「ちょっとした画像」だ。ごく単純にHTMLを書いただけではつまらないが、そこからTABLEなどに進むのではなく、センスのよい小物画像を用意して、見出しの前に付けるだけで、急に雰囲気はよくなる。
書籍の仕事に携わったので分かるのだが、書籍でもルックスを決めるのは画像だ。基本としての文字送りや行送りをキッチリ設定したならば、あとは見出しの装飾をどうするかを考える。−−あとは、実際の内容に合わせ、本文と図版のレイアウトを調整する。
DTPのデザインでは、素材の位置を自由にできる。同じような効果をWebで出すには、CSS2のpositoningを使いこなすことになる。−−私の本は、そこにはあまり突っ込んでいない。ある意味、失格だ。
IE4のころはpositoningをきっちり実装したブラウザはいなかったが、今はIE5もMozilla6もいる。だからこそ、Piro氏のようなWebも可能になる。
(2001年1月27日追記)
CSSは本来は未対応ブラウザにはまったく迷惑を掛けない仕様になっている。しかし、NN4(とIE3)はCSS実装に不具合があり、仕様どおりのCSSを書くと、トンでもない表示になったり、ときには暴走すらする。−−私は、NN4を使うならばCSSをオフにするよう主張している。
この件に関して、Piro氏はこのように発言している。。
そもそも既にMosaicやLynxを平気で切り捨てているのだから、NN4.xを「切り捨て」られないはずがないです。
−−彼は正しい。
DisneyとSquareは分かるとして、なぜか T&E softが噛んでいる。NEC8801の時代とともに、T&Eはとっくに無いものだと思ってた。
T&Eは、名古屋にあるソフトメーカー。PC6001やPC8801の時代に、小物ゲームを多数作っていた。最初に名を挙げたのは、スターアーサー伝説シリーズだと思う。コマンド打ち込み型アドベンチャーゲームで、ときおりミニゲームを挟む。IIIのときは、主人公の状態(空腹とか体力とか)という要素をゲームに取り入れており、当時としては画期的だった(RPGとアドベンチャーの融合などと謳われた)。また、ハイドライドシリーズも、第1段に関しては同時代のSQUAREのドラゴンスレイヤーシリーズと比べて格段にポップだった。
ソフトを買うと、会報のようなものの登録ハガキがついていた。私は会員だった。ソフトの開発秘話や現在開発中のソフトの情報が載っていた。ハマチ部屋(ハマっちゃったプログラマーの監禁室:ようは徹夜作業場)レポートが楽しくて、「ハマチはブリの親である」などの迷言を毎号楽しみにしていた。
だが、ファミコンが十分に普及し、ゲームがパソコンから専用機に移るとともに、T&Eは目立たなくなった。−−ファミコンなひとはハイドライドとディーヴァを覚えているかもしれない。最近(プレステ以降)だと、「遥かなるオーガスタ」くらいしかソフトがない。−−はずだ。私はゲームをやらなくなったので、ぜんぜん知らない。
冒頭の記事によると…
また,Dinseyはティーアンドイーソフトに取締役を派遣する予定で,ティーアンドイーソフトは,実質的にDisneyの傘下に入ることとなる。
ここで終焉に追悼の言葉を贈ろうと思ったが、実は生き残っていたこと自体が奇跡だと思う。−−買い取ってもらえてよかったね。
(余談)
当時のゲームは不親切が当然で、謎解きはかなり不条理なもの。コマンドは(選択式ではなく)自分で単語を書き入れるもので、しかもどんなコマンドがあるかユーザーは知らされていなかったりした。
ハドソンの「サラダの国のトマト姫」や「デゼニランド」は、コマンドを探すこと自体が謎解きになっていた。いまでも「マツ」
「attach」
には腹を立てているぞ! ロッカーをmove
とか。ポートピア連続殺人事件の「ヌガス」
も強烈だったなあ。
スターアーサー伝説の場合、Iでは12*12だか20*20だかのブロックの砂漠を、ヒントも無く無差別に歩きまわされたなあ。IIでは、宇宙空間に漂う無数の星からイベントのある星を探すまでが大変だったね。正直なハナシ、自分では探さずに、ベーマガは山下章氏の本を買いました。IIIは、比較的よかったと思う。が、シーン1のクリア条件である「グライダーでビルから飛び降りる」ゲームがクリアできずに困った記憶がある。
イチャモン事件。うろおぼえだが、味の素が使っている酵素(他社製)の培養液を作るのに、その他社が豚から抜いた酵素を使っているそうな。
2000年9月に指摘を受けて、11月に変更した。だから、現行製品はハラールに問題なし。それに、それ以前は、あちらの皆さんも問題だと思わないで認可していた。 たった2ヶ月で移行決定。素早い対応だ。立派。
味の素は、日本を含め世界各地で、過去に何度もこのようなバッシング運動にあっているそうな。「既存の食生活にとって脅威だ」とか言われるらしい。
この週に読んだ蒼天航路より。孫健(漢字失念)の発言。彼の前で2人の対立する軍師が、己の論を述べる。「いや、そうではありません。要するに、曹操と結ぶか否か、これしかありません。」
という言葉に対して。
“要するに”って言うな。2つに1つとか、何でも無理やり簡単なものにするな。
それまで孫健は、父親と違い「ぼんやり」君だと思われていた。だから、軍師は彼を己の思うとおりに動かそうと、主張を大袈裟にし、かつ分かりやすくしようと工夫していた。だが孫健は、聞いていないようですべてを聞いていた。
−−眠れる獅子が目覚め、三国鼎立の時代が始まる。
これをみた諸葛亮孔明は、「まさか孫健様がこんなに哀しいおかただとは」と涙を禁じ得ない。孔明が人前で鳴咽し言葉を詰まらせるとは、まさに蒼天航路の醍醐味だ。
CDレーベルのは丸いこともあり、デザインが複雑になると、どの方向が正面か分からなくなることがある。そのようなときに正面を見分けるには、経験的にはCDマークが正面を向く方向にすればよい。−−書籍付録CD-ROMをはじめて作ったとき、「CDマークを正面に入れること」と先輩から指導された。たぶん、業界の暗黙の了解なんだろう。
(注:たまにCDマークがないCDもあるが、よほどアグレッシブなアーティストでないかぎり原則CDマークは付いている。)
だが、先日例外を発見した。LSKの日本版CDは、アーティスト名およびレーベル名が揃って正面を向く方向にすると、CDマークが斜めになる。
−−ところが、アメリカ版LSKを見ると、上記3つが揃って正面を向いている。日本版ボーナストラックの曲名を足すときに、日本のデザイナーが勝手に変更したのだろうか?
会社から歩いて新宿に向かう途中に、寒さしのぎに[あおい書店]による。講談社[カツ代流しあわせごはん ケンタロウ流ウマイめし]を立ち読みしたら、ゴボウのごま鶏あえ
や鶏とねぎのオイスターソース
や牛肉のゆでごまだれ
があまりにも美味しそうなので、そのまま購買。1680円なり。
−−これでケンタロウ氏の本は2冊目。1冊目は、[ケンタロウの簡単料理 これ、うまいね!](オレンジページ)。大学時代の先生OUR-YMさんが、一人暮らしを始める私のために譲ってくれた。
ケンタロウ氏の料理には、繊細さのなかにも男っぽい思い切りの良さが同居していて、レシピを見ていると「自分も作りたい」と感じる。−−オレンジページのほうの最大のポイントは、写真がやたら美味そうだという点にあると思う。
(注:ケンタロウ氏は、小林カツ代の息子。)
0:00からブラブラしたため、寝たのは4時ごろ。起きたら11:00だった。
昨晩の残りもので昼食を済ませ、15:00ごろ余裕顔で東京駅へ。去年は楽々座れたからだ。ところが今年は込んでいた。3本先の電車に狙いを定め、30人ほどの行列の末尾に並び、滑り込む。車両に入ってみると、予想以上に客は座れた。5人*20列かな? 100人くらい座れるのか。大きいなあ>新幹線
帰宅したのが19:00。例年は父方の親戚が集まるのだが、今年は都合によりナシ。両親+祖母と食事を済ませ、20:00から諏訪神社。
話によると、祖母宅裏の畑が潰されてマンションになるらしい。地元もいろいろ変わるなあ。
夜に、親に付き合ってタイムショック2001を見る。なんと、「はぐれ刑事」のグループに加藤麻里ちゃんがいるではないか!(漢字自信なし) 彼女はTV愛知「美味しいのが好き」の初代レポーターで、可愛い笑顔と激しい食べっぷりが印象的だった。いま全国放送にいるんだー。補役だがレギュラーのようだ。頑張って欲しい。相変わらず可愛いぞ>かとまり
昼は、ERKさんとともに大須闊歩。今井屋(栗が名古屋一うまい)のところから観音に向かう。
ちょっといったところの和人形屋さん(浜田屋人形店)の店頭にて、端切(30cm*120cm)が600円から1000円で売られていた。ちゃんとした反物なので、柄がきれい。お正月らしく昇竜や鶴亀が多く、しかも色違いが豊富にある。部屋に飾ろうと思い物色し、「黒地に赤糸と金糸で蔓が書かれ、赤糸と緑糸で花びらと葉が刺繍されたもの」を購入。
(補足:方南町の自宅の壁に、そのまま画鋲で止めた。本当は縁の処理をしなければいけないのだが… それでも白い壁紙によく映えている−−と思う。デジカメがあれば撮影するのになあ。)
ついで観音手前のマコト宝石に立ち寄る。名称は宝石店だが、実際には美術系雑貨屋だ。前から気になっていたのだが、入店したのは今回が始めて。
大須観音に入ると、ドテや味噌カツの屋台が出ていて、嬉しくなって購買してしまった。それぞれ1本120円。うまい。−−去年は蚤の市をやっていたと思うのだが、今年はすべて食べものの屋台だ。
ついで味噌煮込みの「たから」に行く。込んでおり、4組待ち。今回は「天玉」(天婦羅+卵)を食べたが、記憶と比較すると不味い。鳥の出汁がないためか?
good willにて新型ザウルス(キーボード付きのやつ)をERKさんとともにイジる。が、予定表に新予定を追加するために5分ほど悩んでしまった。Palm/DateBk3に慣れているせいもあるだろうが、どうも性に合わない。
いくつか入れた後に予定確認モードにしたら、表形式で[開始時間−終了時間][予定内容のはじめの数文字]だけが表示された。これがまた気に入らない。
DateBk3の《1日表示》ならば、予定内容を全部一目で確認できる(詳細が必要なら[コメント]として別扱いにしている)。縦にタイムラインがあるから、順序も1日の中の時刻位置も一目で分かる。《週表示》ならば、時刻に沿って予定が縦棒で表示されうので、予定の順序も長さも一目で分かる。Zaurusだと、どちらも分からない。
上の階ではタイピング ソフトがデモされていた。どれも似たようなものだと思い込んでいたが、けっこうな差がある。『ゾンビ打』は、ゲームセンターにある銃で撃つタイプのゲーム同様にモンスターが3Dで飛び交うので、見ていてとても面白い。メーカーを見たらSEGAだった。一方、『ガンダム』と『ヤマト』は、私が触った範囲では動かない。打ち込めばストーリーは展開するのだが、ゲーム性を考えるとSEGAのほうが上に感じる。だが、感情移入を考えると原作系のほうが売れるのかなあ。
この後、喫茶「しるくろーど」(蕎麦のたか乃??? 店名が2つあった)で一服。ERKさんが頼んだタイヤキが美味しかった。
矢場町パルコに移動。TowerRecordでクラシックとJazzを漁るが、品揃えが悪い。見切りを付けて階を降りると、島村楽器でパーカッション特集をやっていた。ボンゴやらコンガやらを叩く。一番よい音がしたのは、Kids Drumという商品。ポテトチップスのロング筒程度のサイズの筒で、中央がくびれている。一方が膜、他方はヌケ。腹を叩けばポンとなり、縁(リム)を叩けばターーンと響く。ミュートを交えながら「ポンツクとっとんとんタンターン」などと叩く。面白い。欲しい。が、方南町でこれを叩いたら、アパートを追い出されてしまう。やむなく断念。
ERKさんとは、ここで別れる。
ひさびさにTiSiと会う。風来坊で手羽先を食べることにした。せっかくなので、HDTSも誘う。HDTSがBNKT先輩も誘う。待ち合わせは19:00、ナナちゃん下。
風来坊名駅店、事前に「2日から営業」を確認していたが、営業時間を聞いておらず、なん2日は18:00に閉まったことが発覚。大誤算。ぶらぶら歩いて店舗を探すも、どこもかしこも19:30には閉めるという。どうなってんだ>名古屋 だが やぎや だけは開いていた。助かった。貧しい学生の味方 やぎや だけのことはある。
HDTSはいまドクターだが、無事に学位も取得できて、次の春から秋田大学だと言う。彼とは高校1年から大学教養学部まで、ずっと同じクラス。腐れ縁だ。私が最初に尊敬した同年の輩でもある。彼が博士になり、大学教官(助手)として秋田に赴く。めでたいが、ちょっと寂しい。
21:30ごろ店を出て、大幅に場所を移動して富木島町のガストへ。因縁のガストへ、あの日と同じメンバーで。ぜったいにカレーを頼もうと思っていたが、もうメニューから消えていた。無難にソーセージなどを頼むが、例によってどれもこれも不味い。だが、「このマズさ、ふつうのファミレスレベルに落ち着いたね」と皆で納得しあう。
母方の親戚一同が祖母宅に集まる。1歳下のいとこ奥さんと初対面。栗色の髪の毛がきれいだった。また、今年は私も幼年らにお年玉を渡した。喜んで貰えて嬉しいが、中身はたぶん相場の半分…ごめんよー
弟は、結局就職しなかった。大学は出て、プーとしてミュージシャンをやる。いま、彼のバンド(メンバーの半分は社会人)は、名古屋のライブハウスや路上ではちょっとした顔らしい。弟としては、自分の気性も音楽にあっており、続けたいとのこと。そのかわり、生活費はバイトなどで稼ぐ。しばらく(たとえば30歳まで)やって生計がどうにもならなくなれば、あらためて就職したい−−とのこと。弟と直接会話したが、弟なりにケジメも考えているし、音楽についても甘くは見ていない。両親の老後のことまで(東京に出ている兄に代わって)考えている。あの父の息子だけあって、弟は賢い。こうなったら、できるところまで頑張ってもらうしかないだろう。
この件について、いとこ一同で話し合った。みな原則OKを出す。その背景として、ウチの父がピアニストとして生計を立てていることが念頭にあるらしい。私は特に何も言わなかったが、実際には父は「食べるための音楽」を選んでいる。弟のいう音楽はコレじゃない。だから同列にはできない。−−もっとも、弟自身はその違いを理解している。だから私はなにも言わなかった。
自宅に戻ったあと、2日放送の「完全なる料理の鉄人」を観る。第1戦(神田川vs坂井)では、神田川のほうが食材のタイを大事にしていたと感じた。だから、料理の幅は坂井が上だったとしても、神田川の勝ちに納得できる。だが、第2戦(外人vs森本)で挑戦者が勝ったのが納得いかない。食材の扱いも、料理の幅も、森本のほうが上に見えたぞ。
昼に三福へ。若おかみが「あら、おひさしぶりですね」と声を掛けてくれる。大おかみの問いかけに対しても「ご実家が名古屋で、前は名古屋勤めだったけど、いま転勤で東京なんですよ」と答えている。ちゃんと覚えてくれていて、嬉しい。(でも、転勤じゃないんだけどね)
うなぎは変わらず美味しい。店内にあった朝日新聞掲載時の切り抜きによると、「店裏にある井戸から汲んだ水で2日泳がせたあとにさばく。だから、泥臭さやクセは取れている。」
とのこと。
正月から、やたら込んでいた。私が入ったときは2人客のみだったが、宴会7人組と5人組が入り、別途1人と2人がやってきた。繁盛、よいことです。
店を出ると、外は雪だった。しかも風が激しく、かなり寒い。東京が暖かいだけに、厳しく感じた。
名古屋駅に移動し、HMV(生活倉庫)とTowerRecord(近鉄)で時間を潰す。ジミヘンのリマスターものの試聴コーナーでWoodStockを聞く。ブードゥーチャイル最高! でも買わなかった。
新幹線は3分程度のおくれで無事に稼動(秋田のほうは止まったようだ)。今日はひさびさにパスタを茹でる気分だったので、新宿小田急地下でエビカツレツを購入し、おかずとした。
今年の「自分干支」は「いわし」とします。
去年は意図せず永福町は大宮八幡宮に行ってしまった。今年はあらかじめ場所を確認しておいて、方南町は多田神社にgo。そしたら、並んでやんの>参詣。神社の外まで長蛇の列。寒い。俺はここの氏子じゃないし、さすがに待てない。流れる神楽を楽しみながらも、さようならする。
このまま寝るのはナンなので、立正佼正会も新年を祝うのかどうか眺めに行くことにした。ら、いるわいるわ。駐車場整理に警備員まで出てるや。そりゃあそうだよなあ、仏教系だけど「日本の」宗教だからなあ。ここには近寄るのをやめた。
すぐ近くにあるお寺「東円寺」に行く。一般人でも除夜の鐘を叩けるそうな。空いていたし、参加してきた。ごーん。はい、私生まれて始めて鐘を鳴らしました。煩悩落ちるかな?
調子に乗って、隣接する神社へも移動。ありゃ、こちらは工事中で何もやっていない。とほほ。
このまま帰ろうと思ったが、普段とは違う方向にいってみた。西のほうから人足が続いているので、西へ。そうしてたどり着いたのは、立正佼正会大聖堂。考えてみれば当然だった。どうしようかなーと思ったが、せっかくだから潜り込んでみることにした。
大聖堂はにぎわっているが、もともと大きいので混雑は感じない。正門をくぐると、ガラスの向こうに本尊(すくなくとも入口の本尊)として阿弥陀が立っている。奥にも入れるが、手前にも賽銭箱があり、多くの人はここで参詣を済ませている。両翼には「南無阿弥陀仏」と書かれたタスキをかけた男女が並んで「お疲れ様です」「ありがとうございます」などと声を掛けている。
奥に入ると、まず入り口で和服姿の女性がオミヤゲっぽいものを持って待ち構えてる。信者の数人は受け取っているが、受け取らない人もいる。会話から判断するに、縁起ものの飴だ。記念にもらえばよかったかもしれないが、信者ではないので遠慮することにした。
中は、小学校の体育館レベルの広さの講堂で、一番奥に3mくらいの阿弥陀が立っており、両脇に天女が1人ずつ、あとは蓮が生えている。すべて彩色されており、肌は青銅だが、腰飾りなどが緑と朱。まあノーマルな配色だ。
講堂の中には椅子が並べられている。100人分はあると思うが、中にいるのは(立っている人もあわせて)30人程度。外にいるのもあわせて100くらいか。だが、入れ替わり立ち代わりで1000人以上来るだろうし、儀式によっては100じゃたりないんだろうなあ。
もうちょっと奥にも入れるみたいだったが、このへんで おいとますることにした。
帰り道、自宅近くの公園を通ると、そこではネコ集会が開催されている。どこから(誰が)持ってきたのか不明だが、ネコ缶が5個ほど開いており、また地べたにも数ヶ所餌がある。ネコは8匹いたが、全員に割り当てがあるために競争も待ちも起こっていない。1匹長毛のデブ(アライグマかと思った)がいて、こいつだけがアタフタと駆けずりまわっていた。
この公園は、駅から帰る場合は通らない場所にある。盲点だった。これで発見した集会スポットは3つめ。まさに方南町はネコ天国か。